20 / 29

第20話 天誅

 パキン、と音がして、東雲の掌の中で蛍石が割れた。 「これを完全劈開(へきかい)と申します。割れやすい方向が決まっていますので、こうして砕くと、自然と八面体が出現するのです」 「美しいな」  緑柱石をはじめとする石の加工場は、街の入り口のすぐ傍の、森を擁する小高い山の中にあった。聞けば、何代も前から加工場がこの場所にあり、加工後の屑石を捨てたことから、うず高く小山ができ、そこへ年月を経て植物が繁茂し、やがて森ができたのだという。いわばこの森、この小山自体が、東岩地方の装飾品の歴史そのものなのだった。 「色にも種類がございます。透明なものから、青や紫、それに光の角度で色を変える特性を持つものも」  東雲が言葉を切り、掌の上で割った蛍石を、火の点いてる香炉の上に置き、その上からガラスの蓋をした。しばらくすると、ぱちぱちと石が青色に光り、爆ぜはじめる。宵の口で外は薄暗く、暖炉と照明のかすかな明かりの中で石が爆ぜる姿は美しく、見る者を魅了した。 「熱に反応して散る様子が、蛍を連想させるので蛍石と言うそうです」  幻想的な見世物を提示した東雲が香炉の火を消すと、たちまち石は静かになっった。 「もう月が出はじめていますね。今日はこれぐらいにしておきましょうか。こちらにも湯場がございますが、お入りになられますか?」 「いや。東雲卿の言うとおり、今宵はもう遅い。留守を預かる者たちに心配をかけるわけにもゆかぬ。一服したのちに発とう」 「では森の中の近道を通りましょう。細いですが松明の灯りが目印になっておりますし、地元の者は良く知る旧道です」  その後、八尋だけでなく、親衛隊員たちにまで白葡萄酒がひと升ずつ振る舞われた。ゐ号は最初、遠慮したが、東雲に「この娘が踏んだ葡萄でつくられた一番摘みの葡萄酒です。飲んでやってください」と勧められ、断りきれず口にした。  飲んでみると、喉越しの爽やかな酒で、かすかな辛みと甘みがまろやかに混在した、希少なものだとわかった。 「美味しいです。ご馳走になりました」  ゐ号がまんざらでもない声で述べると、東雲に紹介された娘は真っ赤になって俯いた。 「その一言に励まされ、彼女はこれからもいい仕事をすることでしょう。お礼を申し上げます」 「いえ、本当のことですから」  東雲は、こうして地元の民たちのやる気を、さりげなく掘り起こすのがとても上手い領主のようだった。褒められた者が誇りをもって仕事にあたるだけに、「お墨付き」は極めて有効な手段だった。  ひと休みののち、馬車に乗り込んだ八尋らをぐるりと警護しながら、ゐ号ら親衛隊一行も帰路についた。帰りの道は確かに幅は狭いが、所々に松明が焚かれているために、それほど鬱蒼とした森の圧迫感は感じない。ただ、道が谷際につくられているため、水が出ると駄目なのだという。また、丘の上から矢を射かけられては、ひとたまりもないだろう地形だった。  獣が出てきても驚かない静けさを孕んだ道行きに、ゐ号は左右の山際に警戒の視線を走らせたが、先ほどの白葡萄酒のこともあり、あとは帰って寝るだけだという気安さが、親衛隊内には充満していた。  気楽な雰囲気が醸成されつつある中、ゐ号は胃の辺りがほかほかと火照る感覚を不思議に思った。それは少し奇妙で、手綱を片手に預け、下腹をそっと押し撫でる。酒自体、嗜むことが少ないせいで、慣れない感覚が生じているのだと思った。  その時だった。  前をゆく隊員が、いきなりどさりと落馬した。 「大丈夫かっ、弛んでいるぞ……!」  列がわずかに乱れ、ゐ号は慌てて、落馬に驚いている馬の手綱を握り、列へと引き戻した。 「……酔ったのか? 立てるか?」  平衡感覚が覚束ない様子で頭を振る隊員を見て、馬上からゐ号が手を差し伸べようとした、刹那。  ずくりと下腹が疼くような、奇妙な感覚に襲われた。 「──っ……」 (何だ、これ……っ)  酒の回りが早く、酔っているだけだと思い込んでいたせいで、その違和感に気付くのが遅れた。  ぐるぐると視界が回りはじめ、馬上で均衡を保つのが、いきなり難しくなる。しかも、下腹が、初めて発情した時のように、じわじわと甘い感覚に侵されつつあった。 「伍条隊長!」  ゐ号は思わず伍条を呼んだ。隊の主軸で、要でもある伍条は、確か飲むふりをしていただけだったはずだと思い至ったためだった。 「何事だ、ゐ号?」 「周囲に……警戒を……! 何かあります……!」  それだけしか言えない自分をもどかしく感じながら、ゐ号はじわじわと侵されつつある熱をどうにか封じ込めようと馬上で身を捩った。 「く……っ」  ゐ号は念のために携帯していた抑制剤の青い小瓶を懐から探り出した。半日ほどの道行きだったが、ら号が持っていくよう勧めたものだった。効くかどうかはわからない。だが、ないよりはましだと、小瓶の蓋を折り、中身を飲み干す。  他の隊員たちはどうなのか。  もしも何か盛られたのだとしたら、半分以上の隊員たちは、あの酒以外に何も口にすることはなかったはずだとゐ号は省みる。城まであとどれぐらいかかるか、思いを巡らした途端に、今度は後方の仲間が鐙を踏み外し、落馬した。  それを機に、ゐ号は叫んだ。 「っ……敵襲!」  平衡感覚が、まるで船酔いにでもなったかのようにぐらついていた。だがそれだけではない。周囲を見ると、ゐ号の声に反応したのは約三割で、ぐらりぐらりと残りの七割は馬上で均衡を保つのに腐心しており、使い物にならなそうだった。  同僚たちがひとり、またひとりと脱落してゆくのに気付いたのはゐ号だけでなく、複数の隊員が「何かおかしい……っ」「腹が……っ」と叫んでいるのが聞こえた。 「総員抜剣!」  伍条の命令が轟くも、松明の灯りを頼りに馬車を寄せ、その周囲を騎馬で囲むようにして警戒しようとするが、半分以上の隊員が使い物にならない状態だった。多くは気を失い落馬。落ちてもどうにか意識を保った者の、さらに一部が抜剣したが、膝を付いたままで、馬上に残っている者は三割に満たない。  ゐ号もその例に洩れず、馬の首に半ば縋るようにして手綱を引いた。  すると、松明だったものが馬車のある方へ、ゆらりとゆっくり動き出した。  そして、いきなり「天誅!」と叫んだ。 「何事っ……!」  伍条の声に応えるようにして、闇の中から男の叫び声が上がる。 「悪しき王に天誅を下すため、我らは遣わされた! 王に裁きを!」  その声とともに山が鳴動し、松明の灯りがひとつ、またひとつと谷間に広がりゆく。それは次第に数え切れないほどの数となり、完全に八尋ら一行を包囲した。 「天誅!」 「天誅!」  そう叫ぶ男たちの声が、山肌を駆け抜けて響いた。 「落馬した者は捨て置け! ひとりとして中に入れるな!」  八尋と東雲の乗る馬車を中心に円陣を組み、その時へと備える。だが、騎馬がその身体をぶつけるほど密に組んだ円の外側を、松明を持った男たちが囲み、青い顔で「天誅!」と叫ぶのは不気味極まりなかった。 「ぁ……ぁっ……」  ゐ号も酒の影響が皆無ではなく、それはいつしか突発発情になってしまっていた。 「あ──……っ」  視界が傾き、騎馬から崩折れるそうなのを、ただ鬣にしがみつき、耐えていた。毛穴から甘い匂いが漂いはじめるのがわかり、かろうじて馬上にいはしたが、剣を抜くどころではない。  じわりと押し寄せる、覚えのある感覚が、ゐ号を蝕みはじめていた。 (こんな、時に……っ)  松明を持った者は皆平服で、武器は携帯していない様子だった。ただ、皆一様に暗い顔をして、「天誅を!」「王に裁きを!」と叫びながら拳を突き上げていた。 「副隊長、大丈夫ですかっ?」  ゐ号のすぐ傍で抜剣した隊員が、馬の腹をぶつけて尋ねてくる。が、いつも気安く接していた彼の目の色が、ゐ号の視界に入ると同時に、変わった。 「あ──」 「っ、わ、たしに、かまわず……っ」  発情した匂いをかいだらしき周りの優種たちの顔が、まるで酒に酔ったようにゐ号に吸い寄せられてゆくのがわかった。 「陛、下、へいかを……っ、守っ……」  心配して身を寄せてきた隊員の乗る馬の横腹を押し返し、どうにか距離を取ろうともがく。だが、もう腰が立たない状態で、視界が鈍く歪むのが自覚できた。 (だめだ──、わたしが、ここに、いては……っ)  隊員たちが八尋の乗る馬車でなく、ゐ号の方へと視線を吸い寄せられてゆくのが感じられた。このままでは隙ができてしまう。そう思ったゐ号は両脚で馬の腹を蹴り、隊列から飛び出した。 「どこへ──」  ゐ号の独特の匂いに気付いた隊員が手を伸ばす。その腕を振り払い、ゐ号は闇の方へと馬を蹌踉けさせるようにして分け入った。 「わたしを……っ、噛みたい者がいるかっ!」  言いながら、天誅を叫ぶ群れに単騎、よろけながら突撃してゆく。 「わたしは劣種だ! 劣種堕ちだ! 誰か、このうなじを噛みたい者はいるかっ……!」  それは悲痛な叫びだった。 「うなじに歯を立てたい者は、わたしに続け! ついてこい……っ!」  声を張り上げたつもりだったが、どこまで通ったかはわからない。だが、このまま優種の群れの中にいても、突発発情した劣種は使い物にならない。ならば、理性を失った者たちを率いて、この夜闇の中にいる天誅を叫ぶ集団を撹乱し、八尋ら一行が逃げ帰る道を斬り開くしかないと思った。 「発情に惑わされし優種よ! そなたらはわたしが引き受ける! こい! 続け! 謀反人を狩った者にこそ、わたしは噛まれてやる……!」  闇夜の彼方にぽつりぽつりと松明の蠢くさまは、恐怖と興奮をかき立てるものだった。やがて落馬したが、気を失っていない隊員たちの半分ほどが、土に爪を立てもがきながら、どうにかゐ号を追おうと立ち上がった。 「正気な者だけで城に帰還する! 駆け足、進め!」  ゐ号の作り出した隙を見出した伍条が、雷鳴の如き声を張り上げた。乱れた隊列をどうにか立て直し、最高速度に達すると同時に、整然と八尋を乗せた馬車が、隊列を組んだ騎馬に守られながら疾走してゆく。  その伍条の声と、馬の蹄の音を背中に聞きながら、ゐ号はこのあと、どうなるのだろう、とぼんやり考えていた。取り急ぎ、八尋らが離脱できるだけの隙はつくった。松明を掲げた者たちは、ゐ号とその周りに集う親衛隊員たちに恐れをなしたのか、散り散りに逃げ去ってゆく。どこまでも追いつけない、真夏の蜃気楼のような不気味さだった。  どこまで駆けたのかわからなくなるほどの間、ゐ号は鬣に捕まったまま、山野を走り抜けた。そのうちに馬の蹄の音が、一騎、ゐ号を追いかけ続けていることに気がつく。きっと親衛隊員の誰かだろうと思ったが、恐怖のあまり、振り返ることができなかった。ゐ号の恐怖が乗り移ったのか、馬が高く嘶く。その手綱を、もう握っていられない、と思った次の瞬間、後方からきた何者かがゐ号の馬に馬体をぶつけ、腰を抱いて、手綱を引いた。  馬が嫌がるように首を前後に振り立てる。だが、何者かはそれを上手くいなし、ゐ号の首元を覆っているボタンを外すと、そのうなじに歯を立てた。 「あ──……っ」  いやだ。  耐えられない。  八尋以外の誰かに、うなじを、劣紋を噛まれることを許すなんて。  だが、ゐ号の願いも虚しく、相手は首筋にも噛み付いた。そのままゐ号が騎馬から落ちるのを抱きとめるようにして、自分の馬に移す。ずるずると引きずられるようにして、鞍の前部分に横抱きに身体を乗せられる。  刹那、懐かしい匂いがした気がしたが、ゐ号はその眼差しを開く前に意識を途切れさせた。

ともだちにシェアしよう!