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第21話 突発発情
夢のような、幻のような、それでいてやけに現実感を伴った夢を、長いこと見ていた気がする。高熱に冒されたゐ号の身体は、熱と寒気が交互にくるせいで、意識が朦朧としていた。
気付いた時は、夜だったり、そうでなかったりした。見知らぬ天蓋付きの寝台の白い布地が風に揺れていたり、外の光を遮るようにして、天蓋の中が仄暗かったりした。
次に目を開くと、布地の一部が開いていて、人ひとりが覗き込めるほどの隙間ができていた。その隙間にら号が腕を曲げて臥せり、平和な顔をして眠っていた。
「ら、……ごほっ!」
思わず咳き込んでしまうと、それを合図のようにら号が飛び起きた。
「ゐ号様……!」
それからゐ号の額に手をやり、首筋に手をやり、それらが冷やりとしているのは、熱があるせいだとぼんやり悟った。
「どれ、くらい……」
ゐ号の前にいるら号は、涙を浮かべていた。掠れた声で呟いたつもりが、小さな囁きにしかならない。唇を湿らすが、身体を動かそうとすると、節々が痛んだ。枷でも付いているかのように、全身が重く軋んだ。
「一日半、眠っておいででした」
ら号が聡くて会話が助かる、と思ったのが最初の印象だった。
「ご気分は? 陛下をお呼びしてもよろしいですか……?」
前後の記憶が途切れていて、なぜここにいるのか、上手く思い出せない。その隙に、冷気のようなものが滑り込んできたかのように、あの痛み──歯を立てられた時の痛みを思い出し、ゐ号はすべてを理解した。
「ぅ……っ」
「駄目です、無理をなさっては……!」
状況を思い出して起き上がろうとしたゐ号を、ら号の両腕がぐいと力任せに寝台の上へと押し留める。視察の帰りにおそらく一服盛られ、突発発情したところを狙われ、襲撃に遭ったことを思い出し、それから誰かにうなじと首筋を噛まれたことをぼんやりと思い出していた。
「わ、たし、は……っ」
「発情促進剤を盛られて、突発発情した上に、うなじと劣紋を噛まれて失神なさったのです。わたくしは宮廷医には及びませんが、つがいを得た劣種について多少の心得があります。今は、どうか安静に。熱も下がっていないのですから」
ゐ号の声に、やはりあの夢は現実だったのか、と絶望に近い後悔が押し寄せてくる。
「へ、いか、は……?」
結局、うなじを噛んだ者が誰なのか、わからなかった。名乗り出るだけの勇気のある者ならよいのだが、己の身ひとつすら守りきることができなかったことを、ゐ号は心底、恥じて悔やんだ。
だが、自分の話はあとだと思った。
今知らなければならないのは、八尋の身の上に何かがあったかどうか。伍条や八号、そして東雲卿は、どうなったか、ということだった。
焦燥感が這い上ってくるに任せ、ゐ号が問うと、「ご無事です。八号様が少し手首を挫く怪我をされただけで、皆、ゐ号様のおかげで無事でした」と返答が返ってきた。
「そう、か……なら、いい……」
身体の力をかろうじて抜いたゐ号に、無茶をしないことを約束させたら号は、やがてゐ号が眠っている間に起こったことをぽつりぽつりと語った。
ら号によると、親衛隊員たちは、やはり一服盛られたようだった。蛍石の工房で口にした白葡萄酒に、発情促進剤が混入されていた。それを口にした者は、多かれ少なかれ、一時的な発情状態に陥った。そこを、あの松明の群れが突いたのだった。
体調不良に陥ったのはゐ号だけではなく、あの場の七割の隊員が、何らかの促進剤の影響を受けていた。平衡感覚のずれや、下腹の張るようなもぞもぞとした感じは、突発発情の予兆だった。護衛部隊として八尋に同行したのは百名に満たない数の隊員だったため、すぐに応急処置が取られ、七百余名いる城に居残り組の隊員たちが、三交代制で、今は八尋らの安全に気を配っているとのことだった。
ゐ号の機転により、八尋の馬車は伍条とともに無事に城まで帰りつくことができたが、そこに乗っていたのが八号と東雲だけで、肝心の八尋が消えたことから、一時期、親衛隊は殺気立ったらしい。
しかし、八号の状況説明を聞き、四半刻ほどの間を置いて、八尋が騎馬で帰り着いたため、騒ぎはそこでおさまった。
親衛隊内にも命を落とした者はなく、怪我人が十数名、出ただけだった。
いずれも打撲や打ち身で、症状は軽いとのことだった。
「先ほど、怪我をした者たちの手当て諸々は終わりました。国王陛下もご無事です。ゐ号様とともに行方不明になっていた隊員たちも、残らず帰還したとのこと。ご安心ください」
首謀者は、東雲辺境伯だった。
「辺境伯の企みに加わった者たちの洗い出しが行われている最中です。ですので、城全体が浮き足立っているのです。他にも、八号様ほか十数名が、休んでおいでです。ですから、ゐ号様もどうか」
「……わかった。ところで、わたしは、その……」
誰に、噛まれたのだろうか。
確認したかったが、怖くてできなかった。誰が相手だったとしても、受け入れる他にないことはわかっているが、まだ時間が必要だった。
「お身体が重いのは、促進剤の名残りです。もう半日もすれば、それもきれいに抜けることでしょう。陛下にも、ゆっくりお休みになられるようご指示をいただきました。ですから」
ゐ号にそう言い含めるようにして、ら号は諭した。重い片腕をどうにか動かして、ゐ号はうなじのあたりを指でなぞった。確認すると、ざらりとした感触があり、劣紋の上の辺りにも、同じ肌触りを感じた。
「……そなたにも、世話をかけたな。ら号」
もう、誰かとつがいとなってしまったのだ。相手が誰かを知る前に、今は時間が欲しかった。いずれ名乗り出てくれることを願うと同時に、八尋にこそ噛んで欲しかったのだ、という絶望が押し寄せてくる。
「陛下のご命令ですし、ゐ号様のためになることでしたら、喜んで奉仕させていただきます。わたくしにできることは、あまり多くはありませんが……」
「そんなことはない」
ゐ号が礼を述べると、ら号はぱっと頬を赤らめた。憧憬めいた眼差しを向けられ、居心地が悪くなったゐ号は、自分の狭量さを省みる。
(そうだ。この者たちは、わたしに愚痴ひとつ、言ってこない。生まれてきたことを厭うていない。なのに、わたしは……)
複製体の「核」という事実に胡座をかいて、周りが見えなくなっていたのはゐ号だ。伽役たちに罪などないのに、ひとりで嫌悪して、叱りつけて、結局のところ、見ないようにしていたのは、ゐ号自身の器の小ささだった。
「……ありがとう、ら号」
ごく自然にその言葉が相応しいと感じ、呟くと、ら号はどこか恥じらった様子ではにかみ、白い歯を見せた。
「と、とんでもございません……っ」
「その……、先日は、冷たい態度を取ったりして、すまなかった。忘れ物をしたからと、そなたを叱りすぎた。反省している。誰にでも失敗はあるものなのに。わたしとて……」
劣種にとって最大の関心事であるつがい選びに失敗したのに、ら号のことを劣種ふぜいだの何だのと、言える立場ではなくなってしまった。ぎゅ、と掛布を握りしめる指に、次第に力が戻ってくる予感がする。ゐ号は己の罪深さを自覚すると同時に、ら号の気遣いに憧憬めいた感情を抱いた。
「そなたは立派だ。それなのに……わたしは「核」であることを傘に着るような真似をして、ずいぶん酷いことを言ったり、してきたように思う。その、これからは……己の未熟さをそなたらに押し付けることのないよう、正してゆくつもりだ。だから、あの、もし、嫌でなかったら……っ、謝罪を受け入れてくれるだろうか……?」
次第に自信がなくなり、黙ってこちらを見ているら号の顔がまともに見られず、声が小さくなってゆく。いたたまれない沈黙が続き、ゐ号が発言を撤回しようと口を開けた頃、ら号がそっと寝台に伸ばされたゐ号の手を取った。
「そんなこと、気にしておりません。でも……お心に掛けていただいたこと、心より嬉しく思います。ゐ号様」
朱に染まった頬でまっすぐゐ号を見てくるら号の瞳は、同じ色だというのに全く別物の美しさを持っている。これが、伽役を見分けるということなのだろうか、とゐ号はぼんやり思った。
「最初にお会いした時から、ずっとゐ号様はわたくしどもの憧れでした。でもそれは、あなた様が完璧だったからではありません。ゐ号様が、己の未熟さを偽らず、正してゆかれる方だったからです。きっと、陛下もそんなゐ号様だからこそ、好ましく思われたのだと思います」
そう言って、溌剌と笑うら号の顔は、澄み渡っていた。
「しかし、わたしはその信頼を裏切ってしまった。わたしは、うなじと劣紋を……」
「そんなことは、ございません」
ら号の手は、乾いていて少し冷たかった。熱があるせいで、きっとそう感じるのだろう。情けなさに視界が滲むに任せていると、ら号は「お疲れが出たのですね。お眠りください。次に目覚めた時は、もっと良くなっているはずですから」と労りのこもった声で言った。
「ん……」
ゐ号の涙を見なかったことにしてくれるのか。ら号の気遣いに、礼を言わねばと思うが、上手く言葉が見つからない。
「……あの方は、ずっと以前から……、我々元伽役がお世話をするよりずっと前から、ゐ号様のことを見ておいでです」
「……?」
ゐ号が眸を上げると、ら号は眩しそうな表情をしていた。
「元伽役の我々の間には、ひとつ、共通の隠し事があるんですよ。でも、それを今のゐ号様には、お教えしていいかと判断します。……ゐ号様が守り役の時は、その、些か、派手になるのです。きっと、ゐ号様に聞かせたがって、嫉妬させたがっているからだと、ずっと思っておりました」
「あ、……」
何が派手なのか、一瞬あとに悟ったゐ号が赤面すると、ら号は花が咲くように笑った。
「あなた様も、そういう顔をなさるのですね。安心いたしました。陛下には、たくさん優しくしていただきました。どうか末長く、お幸せに。……陛下にご報告してきます」
ら号は少し理解不能なことを言い、今度こそ部屋を出ていった。
ら号の背中を見送ったゐ号は、天蓋の丸い骨組みを数えながら、ため息をついた。末長くなど、幸せになど、きっとなれない。八尋の期待を裏切ったゐ号には、それ相応の罰が下るはずだった。
「敬称など、不要であろう……わたしたちは、等しく劣種なのだから……」
だが、そう呟いた己の声が、やけに晴れ渡っていることを、ゐ号はぼんやりと悟り、不思議に思った。
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