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第24話 驟雨

 視察隊であるはずの八尋らが、東雲の居城の一角を占拠していることが城下街に漏れ出すと、民たちの間に不安が広まった。戦になれば、市民は逃げ場がない。同時に朱雀隊が精鋭を率いて到着し、街の外を囲むようにして陣を敷いたため、人々は猜疑に駆り立てられた。  そんな状況の中、八尋と東雲の決闘の噂が広がりはじめ、正式な通知を出すと、その日の朝から深夜にかけて、闘技場内への切符を求める市民が売り場に群がった。 「国王が負けたら、東岩地方を独立させるってよ!」 「だが急に独立したところで、ちゃんと食っていけるのか?」 「どこより資源のある地方だ。取引したいって国は幾らでもあるだろう!」 「それより、辺境伯様が罪に問われるって、いったいどういうことなんだ? あの方あっての東岩地方だろうに!」  噂が飛ぶ中、親衛隊及び朱雀隊には隊則を守ることが徹底された。よもや破れることのない決闘ではあったが、万が一の場合に備えて、準備だけは万全を期すべく、検問があちこちで行われ、戒厳令の様相を呈した。  闘技場は、決闘のはじまる昼前から大賑わいで、周辺には人を当て込んだ屋台までが出た。民たちにとって、唯一の関心事は東雲の処分に対するものらしかったが、独立を望む声は小さく、従来の関係であるところの中王国の一角として栄える方を選ぶ者が多いようだった。  では、なぜ松明事件のようなことが起きたかというと、どうやら調べを進めるうちに、東雲が金で雇った荒くれ者たちを、あの場に待機させておいたことが判明した。  彼らは夜陰に紛れて高貴な優種が通るので脅しをかけて欲しいと頼まれたらしく、まさか国王その人を脅迫するとは考えていなかったらしい。加工場の娘も、白葡萄酒を上品な味にするためのものだと東雲本人から頼まれ、促進剤と知らずに混入したことを認めた。  それらの事実が判明するなり、東岩地方の商工業団体は、東雲と中王国国王の間で板挟みになった。苦渋の決断として、国王側に恭順の意を示し、八尋もそれを受け入れた。  孤立した東雲が決闘に拘るのは、そういった背景もあるようだ。闘技場に入れなかった輩が暴れぬよう、八尋に危害が及ばぬよう、厳重な警護の中、東雲の希望を容れる形で決闘がはじまることになった。  闘技場内は楕円形をしており、その壁に沿うようにして、親衛隊員たちが民衆側を向き、暴動の起きぬよう牽制していた。伍条が審判役を務め、他にも東雲側についた貴族の中からひとり、武芸の嗜みのある者が、見届け人として伍条の隣りに立った。  ゐ号はもしもの時のため、影武者の八号と裏で待機を命じられ、貴賓席だった名残りの布で覆われた露台から、この決闘を見守ることになった。  楕円形の闘技場の左右の扉から、八尋と東雲が出てくると、会場内の観客が沸き立ち、興奮は頂点に達した。獲物を持った八尋と東雲が向かい合っているところへ、伍条の合図により、決闘がはじまった。 「はじめっ!」  腕が振り下ろされ、八尋と東雲が互いに構える。東雲は槍術の使い手らしく、代々伝わる秘伝の槍を、八尋は腰にいつも穿いている剣を抜き去った。  互いに一本取った方が勝ちである。  最初に仕掛けたのは、東雲の方であった。  金属のぶつかり合う、不快で激しい音がする。東雲が上段に振りかぶった槍で、八尋の胴体を薙ごうとする。八尋は紙一重で避けるが、繰り出された槍の先端に衣服の生地が一部引っかかり、裂けることもあった。  形成は八尋の不利に働き、東雲が槍で足元を狙い、八尋を突き崩そうとする。最初は野次を飛ばしていた民衆も、双方の真剣さに気圧されるようにして、言葉少なになっていった。どちらかが斬られそうになるたびに、わっと案じる声と、それに続く安堵のため息が湧き、打ち合いは長期化していった。  一般に槍などの長物に対抗するには、より剣術の腕が長けていなければならないと言われる。東雲は青龍とよく話しただけでなく、おそらく彼と刃を交えもしたのだろう。そういう付け焼刃ではない、体の動かし方であり、技の繰り出し方だった。  観衆が見守る中、決して八尋が手を抜いているようには見えなかった。 (しかし、あれは、まるで──)  膨れ上がる違和感に唇をきゅっと結んだゐ号のすぐ傍で、待機していた八号が静かに口を開いた。 「陛下の作戦が、効いてきているようですね。だが、あの辺境伯もなかなかのやり手だ」 「八号。陛下は、わかっていて、ああされているのですか……?」 「ああ、とは?」  白々しく切り返す八号を振り返ると、滲むような声が出た。 「あなたなら、気付いているのでしょう? あの戦い方。あれでは、まるで……」  あの払い、突き、薙ぎ、踏み込み。ともすると舞いのようにさえ見える優雅な命の削り合いだが、足運びや体幹の癖まで、あれでは、まるで、青龍そのものではないか。 「そうですね……」  ゐ号が再び闘技場へ視線を戻すと、八号は穏やかに頷いた。 「八号は、知っていたのですね。陛下が何をお考えになっているのか、わたしには、わからなかったが」 「陛下はあれで、まだ説得を諦めていないのですよ。あれが、最後の切り札なのです。しかし、それに気づくほどの余裕が、東雲卿にあればよいが……」  民衆の呑む息が、やがて闘技場の剣戟の音をより強く響かせた。もう百回近く打ち合い、いなし合っている。東雲もそうだが、八尋もそろそろ足元がぐらつく頃だった。 「何とかせねば、このままでは陛下が……っ」  布に遮られた奥から今にも飛び出しかねない様子のゐ号を、八号がそっと止めた。 「今出てゆけば、陛下の努力を踏みにじることになりますよ、ゐ号。これは陛下のお決めになられたこと。我らが口や手を出せるのは、ここまでです。そら、よく見なさい」 「っ」  観覧席に詰めかけた民衆の雰囲気が、それとなく変わってきていることに、八号に促されて初めて、ゐ号は気づいた。いつしか国王の剣の舞いに魅せられる者が出はじめ、東雲の攻撃する番になると、息を詰める者が大半を占めはじめる。  双方が距離を取り、睨み合いになると、ざわめきの中、「青龍様……」「青龍様だ……」と猜疑の声が上がりはじめた。 「あの剣舞、青龍様のものじゃないか……?」  半信半疑のままその色がはっきり見え出すと、やがてざわめきの中から大きな声が飛んだ。 「青龍様、頑張れ! 国王陛下、万歳!」  その一声を誰が出したのか、探りが入る前に次々に民衆が八尋の味方をしはじめる。 「国王様、万歳!」 「青龍将軍の忘れ形見だ!」 「国王陛下が、青龍様を降ろしていらっしゃる!」 「陛下、頑張れ!」  投げられる声の殆どは、亡き青龍と八尋に向けられたものだった。周囲の色が変わる様子に呆然とした東雲が、混乱の視線を走らせるが、東雲への支持を表明する声はほぼなかった。どころか、やがて東雲を非難する声が出はじめる。 「青龍様に刃を向けるな!」 「東雲卿、我らを失望させるな!」 「国王へ恭順を!」  野次と言っても通るようなものから、罵声に近いものまで、闘技場の空気が明らかに八尋の色に染まった瞬間だった。 「くっ……そ!」  東雲が槍を下段に構え、突撃の姿勢を取る。 「いざ、尋常に勝負!」  その掛け声とともにまっすぐ八尋に突っ込んでくる東雲の槍先を、八尋は剣先で跳ね返し、ひらりと槍の柄を片手で引きながら己の身体に巻き込むようにして一回転すると、剣の柄で東雲の背中を強打した。 「ぐっ……!」  均衡を崩して崩折れた東雲の手には、最早武器である槍はなく、八尋が片手に東雲の獲物を持ち、もう片方の手で持っていた剣を、鞘に収めた。 「止めっ! 勝負あり!」  伍条がすかさず手を挙げ、これ以上の暴挙を双方に禁じた。  鮮やかな八尋の青龍を真似た舞いに、場内が騒然となり、拍手がどこからともなく八尋と東雲を包んだ。 「この勝負、八尋国王陛下の勝ちである! 異論のある者は、今ここで申し出よ! なければ、これで終了とする!」 「異議はある!」  伍条の声に被せるようにして、東雲が崩れ落ちた。 「私は異議の声を上げる! この者は青龍将軍を死に追いやった張本人である! 私には許せない! あの青龍様を……あの方を見殺しにした国王など、許せようか! 否!」  膝を付いた東雲の断末魔のような悲鳴に、闘技場中がしんと静まり返った。その悲痛な声を庇い立てする者は、少なくとも民衆の中には、すでにない様子だった。 「民草よ、なぜ忘れることができるのか! この王は青龍様を殺した張本人ぞ! あの方は、東岩地方の誇りであった! 光であった! 青龍様から受けた恩を忘れて、のうのうと王位にいるあなたを、私は断じて認められないっ……!」  土に爪を立て、歯ぎしりをして東雲は叫んだ。 「お恨みもうしあげますぞ、王よ! なぜあの戦をされた……! 青龍は私の友であったのです! かけがえのない、たったひとりの……! あの異民族の突撃さえなければ、あの方があなたを庇い立てすらしなければ、命を落とすことはなかった……! あなたのせいです、お恨み申し上げる!」  東雲の断末魔のような強い悲鳴に、会場全体だけでなく、八尋もまた沈黙せざるを得なかった。能面のようだった顔をぐしゃりと曲げて、東雲は地にひれ伏し、砂を握りしめて身悶えした。 「東雲」  嗚咽が闘技場に満ちる。八尋はそれを黙って聴くよりほかにない。ゐ号は今すぐこの場から飛び出し、八尋を両腕で庇いたい衝動に見舞われた。正しいのは八尋だと、衆目に説いて回りたいと思った。  けれど、これは八尋のけじめだ。  八尋の極東帝国との戦いは、まだ終わっていないのだ。 「ゐ号。ここから先は乱闘になるかもしれません。同士討ちは初めてですね? 手加減は不要ですよ。陛下のためになりません」 「わかって……います……っ」  背後にフードを目深に被り控えている八号が、耳打ちしてきた。ゐ号は拳を握り、身を乗り出す寸前の己を、どうにか諌めねばならなかった。  すると、やがて沈黙していた八尋が口を開いた。 「青龍将軍は……我が父と同い年であった。俺がまだ幼い頃から、あの人はよくかまってくれたものだ。よく叱られた。次期国王として未熟であると、幾度も叩きのめされたものだ。獅子が子を崖から落とすように、俺をよく鍛錬してくれたのは、青龍だった」 「ならどうして左壁後方が崩れた時に、助けに向かわなかったのですか! あなたが動けば、軍全体が動いたはず……!」 「青龍が不要と突っぱねた。俺も、それを呑んだ。最後まで、あの人は武人だった。本当に最後の最後まで……助けられた」 「っ……っ」  涙が嗚咽になり、東雲がすすり泣きをしはじめる。その声に場内の観衆たちも、気持ちを寄り添わせてざわめいた。 「東雲卿、あなたは聡明だ。きっと、今斬り結んだ中で、太刀筋に見覚えがあると思う。あなたと、青龍の仲ならば……」 「何が太刀筋か! 私の青龍を返してください……っ、あの人は、あなたの話ばかりする! どんなに聡明な王か、希望をくれる若者か、そんな話ばかり……! 私のことなど、忘れてしまっているかのように! なぜ! ああ、王よ、あなたが憎い……っ! 返してください……っ、あの人は、私の……っ」  東雲が地面を叩いた。その声を、息を呑んで聴衆も八尋も、そしてゐ号も八号も聞いていた。 「たったひとり──愛した人だったのに……」  その呟きを聞いた時、ゐ号は胸が張り裂けそうになった。この声を聴衆に届けるために、八尋はこの場を設けたのだ。東雲が八尋を歓迎しながら恨んでいた、その心を吐き出させるために、ここまでしたのだ、とわかった。 「俺の剣は、青龍譲りだ。あなたが勝てるわけがないのだ。どんな獲物を使おうとも、青龍の剣は負けることがない。あの人が逝ってしまっても、俺の一部になっている。死してなお、俺を守護してくれる。青龍は、そういう男だった……」  静かに呟いた八尋の声に、雲行きの怪しかった空がごろごろと泣きはじめる。 「そんな──……」  やがてぽつりぽつりと雨が降りはじめ、沈黙に包まれた群衆を静かに濡らしはじめる。八尋を含む誰もが、青龍の不在を嘆いているようだった。 「俺の太刀筋を冷静に読め読める目があれば、あなたが逆転することも、あるいはできたかもしれぬ。俺の剣筋は、瓜二つとはいえ、遠く青龍には及ばないものだからな。あなたは俺に負けたのではない。青龍の幻影に、負けたのだ」  降り注ぐ雨の中、八尋の声は透き通るように浸透していった。東雲がぐしゃりと表情を曲げ、蹲る。震えながら嗚咽を漏らす姿に、ゐ号を含め、誰もが同情を禁じ得なかった。 「私を──殺してください、王よ……」  衆目の前で、まるで抜け殻のようになった東雲がぽつりと漏らした。 「ならぬ」 「なぜですか……っ! あなたに刃を向けたのに、あの方を殺しておいて、私を生かしておく理由がありますか……っ?」 「ならぬものはならぬ。そなたには、追って沙汰を下す。それまでもうしばらく、不自由を許せ」 「陛下──……っ」  雨の中、東雲は動かなかった。動けなかったのかもしれない。  まるで王の涙であるようにも思える驟雨は、やがて上がるとともに、虹を連れてきた──、と地方紙の号外に書かれることとなる。 「私の、敗北です……」  東雲の最後の呟きは、しめやかな雨音に呑まれたままであった。

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