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第26話 その宵のこと

 宵は静かに訪れた。  王の寝所の守り番に就いたゐ号は、静かにため息をついた。花の蜜を煮詰めたような濃厚な甘い香りが、寝所の奥から漂ってくる。昼間、休む暇もないほど忙しくしている八尋の休息を邪魔するのは気が引けたが、ゐ号は意を決して八尋の眠る半八角形の衝立の向う側へと踏み込んだ。  そっと天蓋の布をかき分け、八尋のいる寝台へと忍び込む。安らかな寝息を立てている横顔にしばし見惚れたあとで、ゐ号はそっと手を伸ばした。 「陛下……」  よく見ると、目の下に薄い隈がある。疲れているのだろう。起こすのを躊躇い、その躊躇いを首を振って散らすと、そっと肩へ手をかけた。 「陛下、お話がございます」  ゐ号がそう話しかけると、ぱちりと瞼が開いた。 「やっときたか」  まるで元々起きていたかのような、静かな目覚めだった。ゐ号が床に拝跪すると、上半身を起こした八尋は冗談を言った。 「そなたから夜這いにきてくれるとは、嬉しい限りだ、ゐ号」 「あっ」  ぐいと脇の下のすぐ下の腕を持ち上げられ、寝台の上に上らされてしまう。八尋はゐ号が相手の時だけなのか、やけに気安い。思わずゐ号は八尋を諌めた。 「陛下。そのようにわたくしに触れられては困ります。もしも……」 「安心しろ。そなたにだけだ」 「っ」 「それとも……嫌になったか?」  八尋はあの、松明事件以降、時折、垣間見せる暗い顔になった。  ゐ号に身体を跨がせると、腰を抱いて指先でうなじを撫でる。まるで甘えるような仕草だった。 「この紋を噛ませたことを、後悔しているのではないか……?」 「き、今日は、その件でお話をしにきたのです。陛下。わたくしなりの結論を、陛下にお伝えしたく……」 「結論」 「はい。大事な話です。わたくしの、陛下の、これからにかかわってくる話です」  ゐ号が真剣な声で訴えると、八尋はしばらく劣紋のざらざらとした痕をなぞっていたが、やがてその手を止めた。 「わかった。聞こう」  ゐ号が安堵のため息を漏らすと、八尋は傾聴の姿勢になった。 「その……、先の戦で衆目の中、陛下に手を上げたことを、ずっと後悔しておりました。己の未熟さを直視できず、わたくしの至らなさを悔やむばかりに、陛下に八つ当たりをしました。にもかかわらず、陛下はわたくしを処断されなかった。あの戦場で、命があったのは陛下のおかげです。なのに、わたくしは……。己のふがいなさを恨む気持ちを、間違って陛下にぶつけてしまった。お許しください」  ゐ号が言うと、八尋は短く息を吐いた。 「いや……。あの戦に参加を強いたのは俺だ。そなたが己の命を顧みなさすぎる傾向にあることを、もっと考慮に入れるべきだった」  極東遠征の前に、ちゃんとしておくべきだった、と八尋は悔いているようだった。 「俺はそなたがいると、冷静になれないのだ。それが、あの戦いでよくわかった。そなたを捨て置くことができず、結果的に己の身もそなたのことも、危険に晒してしまった。視察の時ですら、そうだ。俺はそなたのことになると、見境いがなくなる。無理に同行を強いたばかりに、そなたに取り返しのつかないことをしてしまった……すまぬ」  謝るべきはゐ号の方なのに、八尋は苦い表情で、睫毛を細かく震わせていた。  そのかすかな震動が、ゐ号の頬にも伝わるような気がした。 「そなたのうなじと劣紋を噛んだ時、俺は卑怯にも安堵したのだ。これでそなたがどこか遠くへいってしまうことはない。生涯、俺のものになる。そう思うと、爽快にすら感じた」  八尋の腕が、頷きながらゐ号の腰の辺りを緩く撫でる。それが太腿に滑るようにして移動すると、ゐ号はやにわに平常心ではいられなくなりそうだった。  八尋はそのまま言葉を継ぐ。 「だが、それを告げた時、涙したそなたを見て、己の卑怯さを思い知った。ゐ号よ、そなたには、ずっと謝らねばならないと思っていた。ちゃんとした手順を踏まずにうなじと劣紋を噛んだことを。どさくさに紛れて、大切なそなたをものにしてしまった。俺は、愚かなところがちっとも治らない。そなたは、あの松明事件の一番の功労者だ。だから、本来ならば、そなたの願いをひとつくらいは聞いてやらねばと思う。だが──」  八尋はそこで言葉を切り、苦痛と言ってよい表情を滲ませた。 「そなたを手放すことだけは、できぬ」  八尋の手が、ゐ号の軍装の裾をそっと握る。その手がかすかに震えていることを、ゐ号は初めて識ることができた。途端に、抑えきれない衝動が、ゐ号の胸から溢れてくる。この王を愛しているのだと、ゐ号はその時、初めてはっきりと自覚した。 「そなたが俺を、愛していないと知った時、この身がこのまま朽ちてしまえばよいとさえ思った」 「なぜ、そんなことを……」 「違うのか? 朱雀にともに堕ちるとまで啖呵を切ってくれたそなたを、俺は裏切ったのだ。軽蔑されているとばかり、思っていた。そなたに噛み跡のことを伝えた時も、涙ぐんでいたではないか」 「それは、違います、陛下」  まるで予想もしなかった言葉が、八尋の唇から放たれる。ゐ号は混乱し、苦悶した。  無意識のうちに、八尋の憂いの原因となってしまっていた己が恨めしい。 「あの時、涙ぐんだのは、安心したからです。この身を捧げられるのは、陛下以外にいないと、ずっと思っておりました。ですから、不安だったのです。闇の中、痛みだけを覚えていました。それが、あなた様のものだと知らずに、ただ最悪の事態を覚悟していたからです」 「……それは、まことか」 「はい。真実です。わたくしの中の、たったひとつの」  八尋は髪をかき上げると、しばらく狼狽したように視線を散らした。その仕草は、まるで悪夢から覚めたように、現実かどうかを確認しているようでもあった。 「陛下を愛していないなどということが、あろうはずがございません。もっと早くにお伝えするべきでした。不安でたまらず、わたくしごとで精一杯になっていたとはいえ、申し訳ないことを……っ」 「すずめ……!」  ゐ号を引き寄せ、八尋は呻いた。その背中を力強い抱擁が包む。八尋が、あの八尋が、震える身体をどうにか制御しようとしている。何と浅はかだったのだろうとゐ号は目の覚める想いだった。この王の心を一瞬たりとも疑った己を、八尋の足元に投げ出し、裁いてもらいたいと思う。 「わたくしを噛んでくださったのが、陛下だと知った時、どれほど嬉しかったことか。お伝えしようがないほど、幸せでした。しかし、わたくしがかかわったばかりに、陛下の御名に傷が付いてしまったように思えて、後悔したことも、また事実だったのです。お許しください。あなた様を疑ったこと。信じきれなかったこと。わたくしの、弱さです」  松明事件が起きたあの時、ああして独断行動をとったことが、ずっとどこかで引っかかっていた。八尋に無理を強いたのならば、命を投げ出してでも、運命を修正することができる。だが、そのことを伝えにきたばかりに、八尋を無為に傷つけてしまったとしたら、この行動は、いったい誰のためのものなのだろう。 「すずめ──。敢えてすずめと呼ばせて欲しい。そなたの声を聴いた時、頭の中が晴れ渡った。これほど素直な言葉を囀る者が、色街の洗濯場にいたかと思うと、奇跡のようだった」 「わたくしも、あなた様を最初に見た時から、ずっと、比類なき美しさを持つ御方だと思っておりました」  言葉にしたのは、初めてだった。  八尋への気持ちを告白した途端に、あとから溢れるようにそれは湧き出した。 「そなたのまっすぐな髪が愛しい。夜を煮詰めたような、闇の底で星を映すような眸を、ずっと覗き込んでいたいと思っていた」 「あなたの湖の底のような眸を、夢に見なかった夜はありません、陛下」 「すずめ」 「陛下」  互いに呼び合い、見つめ合う。  もう視線を逸らしたりしない。  八尋の目の中に、頬を染めたゐ号の姿がある。  頬を紅潮させ、みっともなく目も潤んでいるが、もうそれを隠すことはすまい、とゐ号は思った。 「俺たちは、きっとひとつになる運命だったのだと思わないか。俺はそなたと生涯を送りたい。その道が険しかろうとも、そなたと生きたいのだ、すずめ。俺を……嫌わないでくれ。愛はともかく、傍にいてくれないだろうか。そなたの欲しいものなら、何でも与える。俺の手の届く場所にあるものならば……」  ここまで言われて、頷かないことなどできるだろうか。  この聡明な王を、ゐ号は本当の意味で侮っていた、と己を省みた。 「愛しております、陛下だけを。わたくしは、あなた様に触れられただけで、正常な判断ができなくなります。陛下の姿が視界にあることが、どれほど幸せか。色街から拾い上げてくださった恩を、どれほど感謝したことか。なのに、恩を仇で返すような真似をしたことを、後悔いたしておりました。あなた様を自由にして差し上げることができるなら、この命など惜しくはない。でも……でも、陛下。わたくしは、あなたのことが好きです、陛下」  支離滅裂に、ただ言葉を繋ぐ。  王に贈るにはあまりにも飾りなく、不格好で、だが、どうしても言わずにはいられなかった。 「あの時、そなたを追って良かった。そなたの匂いを、ただ信じて闇の中を走って良かったと思う」  八尋はゐ号の顔を両手で挟むと、そっとその唇に触れるだけの口づけをした。そして、懐を探り、小さな台座に石の付いた指輪を取り出し、ゐ号の左手を持ち上げた。 「俺の妃になってくれるか」 「……っ」 「俺の妃として、生涯をともにしてくれるか、ゐ号」 「しかし、陛下、わたくしは……」  今はまだいい。子をなすことのかなわぬ劣種堕ち、出来損ないの親衛隊副隊長と言われる覚悟ぐらいはできた。しかし、八尋に同じ枷を背負わせることが、果たして正しい判断なのだろうか。  愛しているからこそ、葛藤した。  しかし、八尋はそんなゐ号の手を握り、引き寄せた。 「子を産めぬことを案じているのであれば、それは杞憂だ。遺伝子検査の結果、そなたは妊娠可能である」 「えっ……?」 「本当は、もっと早く伝えたかったのだが、急に現実味を帯びたら、怖くなった。俺も、小さなものだな」  八尋はそこで初めて笑みを浮かべると、ゐ号の頬を撫で、その薬指に指輪を翳した。 「して、返事は?」  左手を見て、ゐ号はその石が蛍石であることに気づいた。闇の中で、ぼんやりと照明の光を反射する石は、火に翳すと激しく飛び散る、不思議な性質を備えている。薬指を八尋に捧げたら、きっと八尋はその気性ごと、愛すると言ってくれるだろう。それがわかった。 「は──はい……。──ともにいることを、お許しいただける限り」  お傍におります、と呟いた声を、八尋が拾い上げる。 「そなたを厭うたことなど、一度もない。そなたが己を顧みず無茶をするから、俺は寿命が縮んだぞ」 「わたくしは、陛下のお傍にいられるだけで、毎日寿命が十日ずつ延びております」  今までずっと、秘密にしてきたことを、初めて八尋に打ち明けた。 「……そうか」 「はい、陛下」 「ゐ号」 「どうか……すずめと」  もう、ゐ号でなかった時の己を、価値なきものと切り捨てられない。  八尋が愛してくれるならば、すべてを未来に持ち越し、ともに歩いてゆこう。 「俺より先には逝くな」 「っ……」  その声は切実だった。 「俺より、多く愛せとは言わぬ。だが、俺のこれからの生涯のすべてが、そなたとともにあることを、願っている」 「陛下、わたくしは……」  ゐ号が顔を上げる。自分でも紅潮しているのがわかるが、それを隠すことも、もうできない。 「わたしは、陛下のものでございます。あの日に申し上げたとおり、身も、心も、生涯も、魂も、すべて──……あなたに拾われてから、ずっとあなたのものになりたかった」  隠し切れない想いが溢れてくる。好きだという気持ちが制御できなくなる。 「すずめ、そなたが愛しい。そなたをくれぬか。この俺に。今すぐ、この飢えた身にくれぬか」  もう躊躇うこともできなくなったゐ号は、しばらく唇を噛んで黙っていたが、やがて静かに頷いた。 「我が愛を受け入れよ。すずめ」 「はい、陛下……喜んで」

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