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15.人間じゃない何か

 日増しに遅くなっていってた隣室への足取りが、今日は早まった。  腹が立ち過ぎておかしくなったんじゃない。昼間に何もしないでやった分を一秒でも早くぶち撒けたかったからだ。  捻ったドアノブが途中で支えないのも、あっさり扉が開くのにも、もう慣れた。「鍵はかかっているが、鴇坂にだけ開けられる術を施してある」って言ってた宮代は、防犯よりも見栄が大事らしい。  生活感のないキッチンを数歩で抜けて居間へ進むと、本を読んでるか勉強してる宮代が振り返って、棒読みで「ありがとう」だか「お疲れ」を言う。って、いうのがいつものパターンなんだけど、今日のこいつはぼうっと壁を見ていた。普段はやたらきちっと伸ばている背筋も少し緩んでいる。  今度は何キャラだよ、気持ち悪ぃ。この数日ですっかり癖になった舌打ちを一つ打つ。音に反応したのか、仄白い顔がぎこちなく動いた。  何故か、瞬きを二つ三つする間で、その顔面が目の前に来ていた。  え? と思う間もなく宮代の指先が肩に触れる。綿みたいな軽さで体が後ろに傾き、景色がスローモーションで流れて行った。  とん、と後頭部が床に当たった感触と、宮代の肩越しに天井が見えてからようやく、押し倒されたらしいと理解する。 「は?」  ムカつくとかより、まず意味が分からない。何で死ぬ程嫌いな奴に見下ろされなきゃなんねぇんだ。しかも宮代は、膝立ちの状態でオレの腹の上に跨ったまま何も言って来ない。  さっきの「は?」は、降りろって意味だと思うのが普通だろ。要らねぇ事はベラベラ喋るくせに、こういう時だけ無視か。  転げ落とすつもりで体を起こそうとすると、触れる程度の軽さで胸を押された。数センチ浮いた上体から、すとん。と、力が抜ける。 「え……?」 直後に、ジェットコースターに乗った時と同じ、心許無い浮遊感に包まれる。ふわっ、と内臓が宙に放り出されたような感覚に驚いて、今度こそ起き上ろうと腹に力を込めたのに、体は持ち上がらなくなっていた。  つーか、それだけじゃない。立とうとした足は膝を曲げただけで終わるし、腕も自由に動きはしても、それ以上役に立たない。力は入るのに、抜け出す事だけが絶妙に出来ない状態になってやがった。 「んだよこれ、ふざけんな!」  何をどうやっているのか、バタつく事しか出来ない。その上、肝心の宮代は未だに一言も喋らないままだ。クソが。オレの方が本気になってるみたいだろ。死ね。 「お前、いい加減にっ──」  しろ。という最後の二言と、宮代の腕を振り払おうとした手を止めたのは、無感動にこちらを見下す、あまりに昏い二つの眼だった。  やば……く、ないか? ないかっつーか、絶対ヤバい。  今までよりもっと本能に近い部分が、肌を粟立たせた。宮代の腕に触れたままの手から、ぞくりと不安が広がった。いつも無駄に鬱々してんなって思ってたけど、こんなに冷め切った目はしてなかったはずだ。  墨。ブラックホール。地の底。自分を見下ろすそれを例える単語が浮かぶ中で、街頭で流れていたゲームだか映画だかの宣伝を思い出す。あの、夜との境目がないくらいに真っ暗な海が一番近いと思った。  月も星も消えてしまった水面の直ぐ下から、得体の知れない怪物がこちらを値踏みしている。その視線によく似た黒は、感情なんてものが初めから存在しない色をしていた。  どろり。  恐怖よりも畏怖に近い感情で縛り付けられていた体へ、宮代が触れている胸の所か何かが流し込まれる。  今度は何だよ!? 異様な雰囲気に飲まれそうになっていた意識が不快感で正気に戻った。慌てて自分の体の状態を確かめる。相変わらず起き上がれない所為で顔と視線を下げるだけしか出来ないが、見た目で分かる変化はない。  けど、皮膚も肉も無視して何かが滑り込んで来る感覚が、確かにする。  もったりと入って来たそれが、体の中を巡る僅かな圧迫感と不快感。どろどろと。ずるずると。オレの中に淀みを落として、宮代の元へ還って行く。  淡々と進められる作業の中で、自分が濾過器になったような錯覚がした。恐怖と嫌悪感が一気に駆け上がる。 「止めろつってんだろ!!」  退け止めろ聞こえてんのか、と叫びながら滅茶苦茶に暴れ回る。なり振りなんて構っていられるか。後で揶揄われようがこいつの能力自慢が激しくなろうが、今はどうだって良い。 「もう、いいだろ! 何してぇんだよ!!」  ありったけの力で叩いても必死に藻掻いても、宮代はびくともしない。オレの事が見えていないか、じゃなかったら見えてても焦点が合ってるだけで、それが生きてる人間だって分かっていなそうな視線を向けられる。  何だよ。何が不満なんだよ。くだらねぇ遊びに付き合ってやってんのに。お前は好きなようにしてんのにオレだけこんな目に遭って。何でお前の、お前らの所為で、こんな。  喚き散らしたいくらいの怒りと殴り飛ばしたい程の恨みに、どくん、と身体を流れていたものが呼応した。大人しく宮代に還っていくだけだったそいつらの表面がざらついて、ごろごろとした物が混ざる。それが、今まで以上の圧迫感と血管を裂くような痛みを含んで、ずるり、と一歩這った。  たぶん、オレは叫んだんだと思う。  痛過ぎて一瞬何がなんだか分からなくなった体の上から、誰かが飛び退いた気配がする。それに合わせて、浮遊感と痛みも消えた。 「鴇坂、大丈夫か!?」  覗き込む顔が滅茶苦茶焦ってるって分かるのは、目がちゃんと見えいてる証拠。ヒューヒューいってんのはオレの喉か。つー事は、呼吸は出来てる。手の先から足の先まで恐る恐る動かした感覚は──何処でも途切れなかった。  試しに、と体を起こしてみると、あんな事があったなんて思えないくらいに上手く、っていうか普通に起き上がれた。擦り傷一つないし、内臓も、見えはしないけど無事っぼい。……そっか。なんともなかったのか。 「鴇坂……。」  そう呼んだ顔面に向かって、拳を叩きつけた。  パンッ、と、薄い音が響く。頭蓋骨にめり込ませたかったそれは、クソな事に宮代が手で受け止めやがった。その事がまたムカついて、止められた拳に体重をかけて驚いた顔してる馬鹿を押しやり、一瞥くれてやってからそのまま無言で玄関に向う。 「待ってくれ!」  本当は、あんなもんじゃ収まってない。殴りてぇし文句も腐る程ある。けど、こいつと同じ空間に居る事が一番耐えられない。 「すまなかった! 待ってくれ。」  靴に足を突っ込んだところで、腕を捕らえられる。思い切り振り払ったが、今度は肩を掴まれた。 「今の事は、本当にすまなかった。体に異常がないかだけ確認を──」 「あ!? ふざけた事言ってんじゃねえよ! てめぇがやったんだろ!」 「申し訳のない事をした。故意ではない、と言いたいところだが納得はいかないだろう。説明をさせて欲しい。」  またそれか。わざとじゃないから言い訳聞けって? こんな風になると思ってなかったから許せって? 冗談じゃねえよ。 「約束通り来てやったら急に襲われて、死ぬ思いさせられた。それ以外の何があんだよ!」  力任せに扉を閉じた圧が体の横を吹き抜ける。首筋に浮いた汗を冷やした風は、宮代の声も気持ちの悪いあの寒気も連れて来る事はなかった。

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