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23.知りたくなかった

 伸ばした手がぶわっと暗雲を掻き分け、さっき離れたばかりの肩に触れる。途端に、薄膜越しの棘が掌に刺さり、潰れたての甲虫の死骸を見た時に似た嫌悪感が這い上がった。やらなきゃ良かったって思うのも、宮代から制止の声が飛ぶのも予想通りだった。 「気持ち悪」  こんなもん、一人でどうにかなる訳ないだろ。  そんな感想が浮かんだ訳は理解したくないから、無駄に種類豊富にしてんじゃねぇよと、適当な悪態で流す。オレのクソみたいな体質が悟ってるかどうかも、こんな感覚が本当にあるのかどうかまで考えなきゃなんねぇから無視する。  はっきりしてんのは、さっき手を突っ込んだ先にあったものを、どうにかしないとまずいって事だけ。  たぶん、宮代の役割はただの箱だ。〈アレ〉を発してるんじゃなくて、ただぎゅうぎゅうに詰め込んどく用の入れ物に過ぎない。そんで今、収まり切れなくなった分が滲み出てる。最悪な事に。  薄まっててこれだ。決壊したら、逃げ切る前にたぶん──。 「鴇、坂……やめ──」 「うるせぇ何度も言わせんじゃねえよ! 黙って協力しろ! 出来ないんじゃなくてやりたくないだけならやれ!」 「……断る。」 「はぁ!?」 弱ってるはずの宮代が、何でかはっきり拒否しやがった。冷え切った指がオレの手を掴み、決意めいた視線が射るように向けられる。 「もう、お前に、先日のような思いは、させたくない。」 今更だろ。んな真剣になるくらいなら、最初からどうにかしとけ。  つーかこっちは、お前がよくやってる悲鳴飲み込む時の音が、今の台詞ん中にちょいちょい混ざってんの聞こえてんだよ下手糞。あと空いてる方の手、爪剥がれそうな感じで床握ってんのも見えてんだよナメてんのか。 「バカか!! 無理だからやってやるっつってんだろ! オレでも分かる嘘吐いてんじゃねぇよ!!」  衝動のまま掌に力を込めると「あっ」と不意を突かれたような声が聞こえた。瞬間、音の無い叫びが部屋を震わせる。それと同時に、やっと出口を見付けたとでも言うように、宮代の中に詰め込まれていた〈アレ〉──嫌な感情のごった煮と凄ぇ痛くてヤバい何か。が、オレに流れ込もうと押し寄せる。  一気に増した圧に覚悟を決めて歯を食い縛る。けれど、大きな音が体に響いた時に似た衝撃が駆け抜けただけで、おまけ程度の痛みと不快感がするりと表面を撫でて通り過ぎて行った。まるで、途中で堰き止められたみたいに。 「おい! 人の話聞いて──」  絶対、要らねぇ気ぃ遣われた。何でオレがお前に守られるみたいな事されなきゃなんねぇんだよ。罵倒の強さで抗議が飛び出そうとした時、思いがけない柔らかさで手を包まれる。驚いて、言いかけた言葉が詰まった。 「鴇坂。結局は、お前に頼る事しか、出来ない事を。酷な頼みをする事を、許してくれ。」 「煩ぇ、今だけだ! 分かったら早くしろ」 「これまで以上のものは、与えない。だから、頼む。……逃げないでくれ。」 「は? バカにしてんのか!?」 「これから何を垣間見ようとも、逃げる事も、立ち向かう事も、絶対にするな。俺に返してさえくれれば良い。だからどうか……どうか、そこに留まってくれ。」  珍しく殊勝に聞こえなくもなかった声色の所為で、僅かに緊張が緩んだ。その油断へ向かって〈アレ〉が身を捩じ込ませる。さっき飲んだコーヒーと胃液が混ざったクソ不味い味が込み上げた。  来た。  過った途端、死に物狂いで叫ばれたどっかの誰かの『タスケテ』の濁流が、宮代を突き破る勢いで詰めかける。服と皮膚で隔てただけの所を手加減なしでぶっ叩かれる感覚は、ホラーで死体の群れがガラス戸にへばりついてるとこみたいだった。うぇっ、と嘔吐きが漏れる。  目でも痛覚でも何も拾えてないのに、脳に直接、虫唾が走りそうなくらいグロくて、見てるこっちにまで痛みが伝染しそうな惨状の感触だけが突っ込まれる。  ぐぢゅっ。パキッ。って何かが潰れて折れた。  バーナーで髪を焦がした時のと似た臭いが、むせそうな鉄の臭いと混ざって気管に詰まる。  腐った肉と泥の味と爆撃の轟音が投げ込まれて、その間ずっと、何て言ってるかも分からない恨み言に責め立てられる。  薄められてるのに生々しい感覚が次々とぶち撒けられて、頭がおかしくなりそだった。誰かから擦り付けられた涙が溢れそうになる。 「……ふっざけんなよ!!」  前言撤回する。ホラーどころじゃない。人間をバラす映像ってたぶんこんな感じだ。吐く。死ぬ程エグい。それを、黙ってこっちに戻せって。何頼んでやがんだよ。  映像見せられてるって感覚すら緩い。現場に連れて来られて、目ぇそらさないで見とけって言われてるようなもんだろ。 「ぅ……あっ……」  ふざけた頼みをした張本人が、抑え切れなかった悲鳴を短く零し、吐息を震わせながらオレの肩に顔を埋めた。 「止めっ……いや、だ……嫌だ、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……! やめてくれ、痛い、やだ……怖い……っ」  オレが居る事なんて頭からすっかり抜け落ちているのか、宮代は錯乱する手前みたいにらしくないうわ言を繰り返す。  うるせぇな。止めろって何だよ。お前の為にやってねぇし。あと嫌ってなんだ。つーか、誰に対してだよ、オレに言ってねぇじゃん。怖いとかも、思ってんならさっさと吐けば良かっただろ。 「……・クソが!」  もう何処が痛くて何処に異常があるのかも分からない。自分の苛立ちと、強制的に引っ張り出される憎悪で宮代の肩を握り潰しそうになる。その何倍も苦しいはずの奴は、オレに向けては何も言わずぎゅっと服を掴むだけだ。  最悪だ。こんなものを溢れないように抑えとけって。自分の中に突っ込んどけば解決するって。正気か。つーかバカだろ。「そう作られたから」って当たり前に受け入れて。馬鹿過ぎんだろお前。抵抗くらいしろよバカ。 「助けて……。」  胸の前を、何処にも届かないってわかっている音が滑り落ちた。山程の人間の同じ言葉は、誰彼構わず襲い掛かかろうとその体を突き刺しているのに。  本当、最悪。  こんなの、知るんじゃなかった。

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