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26.水溜りになった
暑いな。と浮かんで、帰宅してからそれなりに時間が経った事を自覚する。
コートも鞄も適当に置いたままだし、立ち上がらないと空調は操作できない。それなのに、ベッドに腰掛けたまま、今日一日考えていた事を未だにぐるぐると巡らせていた。
授業中に、休み時間、帰り際。時折、そっと伺った宮代の様子を思い出す。
あの性格だしオレにしか絡んで来ないし、ぼっちなんだろうなって思ってた。実際、見てる間はずっと一人で行動してたし、誰かと特別仲良い感じもしなかった。
でも、じゃあ孤立してるかって言えばそうでもなくて、化学の実験の時は普通にグループに馴染んでた。体育でペアになった奴に嫌がられてる様子もないし、声をかけられたらちゃんと受け答えしてて、あいつの方が周りと距離取ってるだけって事が分かった。あと、オレみたいにあいつは異常だと思って嫌ってる奴が居ないって事も。
目の前のテーブルに、あの封筒が見える。
初めて見た宮代の字は、印刷したんじゃねえのって思うような整い方をしていた。
ペンの擦れで一応手書きだと分かる文には、昨日の謝罪と感謝。
ベッドには送り届けたけれど、部屋には上がっていないから安心して欲しい事。
鍵は持っている様子がなかったから、人避けと、誰かが勝手に入ったら排除する設定をした事。
それを魔法でやった。ってとこは考えないとして、オレの疑問にきちんと応える内容が書かれてあった。
ただ、昨日は今までで一番無茶をさせられたのに、今日、問題もなく授業を受けてバイトまでこなせた事と、宮代も同じように普通に過ごしていた事を考えると、
『心身の疲労も緩和させた。鴇坂が魔術を使用される事を好まないとは知っているが、今回ばかりは必要だと判断した。許して欲しい。』
って書かれた一文と特殊な力に、若干の信憑性が生まれないでもない。
つーか、あいつは来れないかと思ってた。
あんなヤバいものを直に相手にして一晩で回復するなんて、それこそ魔法か何かでも使わない限り無理だ。オレが今まで経験したのの比じゃねぇし、二度と関わりたくない。ぎりぎり安全圏に居たオレでああなんだから、全部を受け止めさせられる方なんて、考えたくもなかった。
宮代はアレを何度も経験してんのか? いや無理だろ。体は平気でも精神ぶっ壊れる。って事はもうちょいマシなくらいか。反応的に、最初に頼まれた時が平均くらい────。
「あー……」
ガシガシと頭を掻き、天井を仰ぐ。じゃあ、ダメだろ。けどやっぱ分かんねぇ。
真逆の感情は鬩ぎ合ったまま、どちらにも転んでくれない。本音を言えば、走って頭空っぽにしてさっさと寝たい。でもどうせ起きたら同じ事で一日悩む。
そうしている間にも刻々と時間が過ぎて行く事に痺れを切らせて、もう成るように成れと立ち上がり封筒を引っ掴んだ。くだぐだした気持ちをどうにかしたいっていう勢いだけで足を進める。もう寝てるかも知れないしやっぱ明日で……、と往生際悪く隣室のドアノブの前で一瞬止まった手を振り切って呼び鈴を鳴らした。
この一回で出なかったらそれまで。開いた時は──。
賭けか運試しみたいな気持ちで待つ事数秒。実際よりも長く感じた間を打ち切ったのは「今開ける」と言う平坦な声だった。
「何かあったか?」
ただの無表情にも、少し曇っているようにも見える顔付きで宮代が現れる。ある意味いつも通りで、やっぱり、今までと違っていた。
昨日までは確かに、近くに居るだけで気が散って、目に入ったら条件反射みたいに「ウザい消えろ」って思ってた。
なんだけど今は、いつも通り火ぃ付けようとしたのに燃えないみたいな。つーかこれ燃やす必要あったっけ? みたいな。穏やか過ぎて、逆に落ち着かない。
来るだけ来て何も言わないオレをどう思ったのか知らないが、そうだ、と言って先に口を開いたのは宮代の方だった。
「まだ直接は謝罪が出来ていなかったな。昨日は俺の見通しの甘さの所為で大変な思いをさせてしまって、すまなかった。そして、本当にありがとう。鴇坂が来てくれなければどうなっていた事か……。書き置きの通り色々としてしまったのだが、異常はないか?」
首を傾げた拍子にさらりと黒髪が溢れる。その奥にある眼を見る事が出来ないまま、質問の答えの代わりに封筒を差し出す。いつの間にそんな力で握っていたのか、くしゃりと皺が寄っていた。
「これ、返す」
「何故?」
「必要ない」
「しかし、報酬を支払う約束だっただろう。」
「いらねぇ。つーか今までのも後で返す。あと……もうこういう事する気ねーから」
やっと口から出た言葉と声は、かなり無愛想だった。そんな風に言われたらどう思うかなんて分かりきってて、そうか、と応えた宮代からは後悔が滲んでいた。
「そう、だな。危害を加えるつもりはないと言っておきながら、度々あのような目に合わせてしまったのだから協力出来ないと思われて当然だ。」
「あー……いや、そういうんじゃなくて……」
「しかし、それならば尚更受け取れない。迷惑をかけてしまった分の返礼はさせてくれ。 ……それに、まだ鴇坂の事を解放してはやれないのだ。昨日で最も危険な時期は脱したはずだから、次の者を探し易くなると思うのだが……。」
いや、どちらにせよ同じだな。と最後の言った音が吐き捨てたように聞こえた。鴇坂すまない、と付け加える視線も今までとは違って見えた、気がする。
「だから、違えって! そういうんじゃねぇよ」
「……そうではない、とは?」
強い調子で返された事に驚いたのか、宮代が体を跳ねさせた。顔にも聞き返した声にも、珍しくクエスチョンマークをいくつも浮かべている。
なんだよ、普通の顔出来んじゃん。最初からそれ見てたら違ったかも知んねぇのに。こっそりぼやいた胸にはもう、今までと同じ質の苛立ちは湧いてこなかった。
「……あんなヤバい事になってるって知ってたら、金取ってねーよ」
言うべき事もやるべき事も決まったのに、鼓舞するようにして育てて来た悪印象と感情が邪魔をして素直な態度を取らせてくれない。いや、でもこのままだと弱味に漬け込んで金巻き上げる奴みたいになるし。そこまで良心腐ってねぇし。
押し黙ろうとする口を無理矢理開いて、整いきれていない感情をどうにか言葉にする。
「こっちだって、あの気持ち悪ぃの早くどうにかしたいっつってんだよ!
オレが何か出来んならやんなくもないっつーか、待ってるくらいならさっさと消したいし。昨日ので結構、消えたっぽいし。お前、今までよりマシになってるから。……だったら、金以外の物貰うのも、まぁ、いけんじゃねって。マジでアレなくせるなら、オレ的にもメリットだし」
一呼吸置く為に吐いた息がうっすらと白い。暖房に温められて滲んでいた汗が引き始め、体が冷える。これもお前がやってんだろって疑う事のあった温度は、何か羽織ってくりゃ良かった、に変わっていた。
まだ宮代の全部を信じてはいない。こいつが最初の頃と同じように戻った時、どう思うかも分からない。
でも、何処へも行けない「助けて」は、昔の自分が叫びたかった言葉と同じ音をしていたから。
試しに拾ってみるくらいは、しても良いんじゃないかって。
「ついでに勉強、本当に教えられんなら、充分だし」
母さんは、オレが寝てると思って「私の時間を返して」って枕元で溢した。
父さんは、「二度とくだらない嘘を吐くな」って言ったっきり、オレを信じてくれなくなった。
兄さんは、何も言ってくれなかった。
だったらオレが「こっちだって辛いんだ」って目も耳も塞ぐのは、負けだろ。
「次からは、それで良い」
心の隅の方が、降参だと手を上げる。もっとじくじくと苦さが広がるかと思っていたのに、散々葛藤して使い果たされたのか、不思議と悔しさは感じなかった。
当の宮代は、何がそんなに意外だったのか、ぱちぱちと数回目を瞬かせる。止めろ恥ずかしい。オレが改心した悪人みたいだろ。
「言っとくけど、役に立たなかったら速攻で条件変えるからな。一応学年順位上の方だし、教わんなら授業より受験メインで考えてっから、無理ならお前もさっさと言えよ!」
くそ。もっと上手い言い方あんだろ。やっぱり言う事決めてから来れば良かった。つーか、顔、あっつい。
言い訳なんだか脅しなんだかはっきりしない宣言を飛ばされた宮代が、きょとんと首を傾げた。それから、すっ、と眼を細める、
「分かった。必ず期待に応えよう。」
ふわり、と黒い瞳に月明かりが灯る。涼やかで優しい、聡明な中に嫌味のない自信が混ざった光は、思いがけないくらい穏やかだ。
泥水だと思っていた色が、柔らかい春の夜に変わった。
真正面でそれを見た所為で、今度こそ何て言っていいか分からなくなる。じゃあそういう事だから、と早口で返して封筒を押し付け、踵を返した。
「鴇坂、すまない。ありがとう。」
聞き慣れた言葉がいつもより柔らかく聞こえた気がして余計に顔を見られなくなった。けれど、余計な一言でむず痒さを誤魔化したくなる気持ちを押し込んで口を開く。
「明日は、放課後な」
暖かく吹き抜けた風に、花の匂いが乗る。帰り道の日陰にあった氷の塊は、小さな水溜りになっていた。バイト先の春メニューは来週から始まると聞いている。初めて自分からした約束の続きは、そのちょっと浮かれた空気に当てられた所為だ。
雪解けの季節は、もう始まっている。
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