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54.味とは成分を分析し他者の感想を引用するだけのもののはずだった

「もう夜じゃん」  入店した時は夕日が残っていたが、伸びをしながら言う彼の頭上は暗く、少しばかりの星が浮かんでいた。  空腹という概念のない俺に適正時刻はないが、僅かに注意力が落ちて来た彼は食事を摂るべき頃合いだろう。 「夕食はどうしようか?」 「こっち」  訪れる機会があまりなさそうな地区にも関わらず、迷いのない足取りで彼が歩き出す。一瞬だけ、さらりと指先を引かれたけれど『詳しくないので先導してくれて有難い』という感想を優先させ、何も思わなかった事にした。  程なくして辿り着いた店は、入った瞬間に肉の焼ける芳ばしい匂いがした。  飴色のテーブルに照明の明かりが柔らかく反射している。壁にかけられたポスターと、カウンター席の向こうに並ぶ色とりどりの瓶や小物が明るさを加え、親しみを感じさせる作りだ。  街並みを眺められる窓際には先客がおり、数の少ないソファー席を二人で使うのは気が引けて、奥まったスペースにテーブルを嵌め込んだような二人がけの席を選んだ。俺は奥、彼は手前側にそれぞれ腰掛ける。  渡されたメニューを開けて、思わず顔が綻んだ。  艶やかな焼き色の付いたバンズと、こだわりの文字が大きく添えられた肉。野菜の赤と緑は見た目にも鮮やかで、隣にこんもりと盛り付けられた芋が黄金色を添えていた。  この店ではないが、先日、田崎と泉が美味しかったと話していた物と同じ物の写真がそこには並んでいた。  「同じ名前なのに、いつも食べてるのと全然違ってね!」「本格的なやつになると、違う食べ物みたいだったよな」と、興奮気味に二人が語る様子を興味深く聞いていた事を、昴は覚えてくれていたのだろう。  注文を終えて暫し待ち、実際に出てきたそれは確かに「こういうの食ってそうな感じしないよな」と言われながら、一度だけ皆で食した物とは随分と印象が異なった。その殆どが手軽な食べ物として認知されているとは思えぬ程、高さも具材も迫力がある。 「手持ちで大丈夫だろうか?」 「たぶん。駄目なら食器あるし」  じゃあ、いってみるか。と、胸踊る挑戦に笑みを交わし、思い切って齧り付く。  香ばしさが漂うふっくらとした食感の直ぐ後に、厚みのある肉からじゅわりと肉汁が滴る。コクと仄かに酸味のあるソースが旨味を増幅させ、野菜の瑞々しさが味全体を引き締めた。  面白い。見た目もさる事ながら、こんなにも味に違いが出るとは。  芋を揚げた付け合わせの方はどうだろうか? 期待をしながら口を付ける。  思った通り、からりと揚がった表面の歯切れの良さと、素材本来のほくほくとした食べ応えを楽しむ事が出来る絶妙なバランスで、ついもう一つと手が伸びた。それからもう一度、メインを頬張る。以前食べた方もあちらはあちらで趣があったが、こちらの方が断然、食事という感覚が強い。  しかし俺の場合は、料理そのものの美味しさも勿論だが、調理担当の者や給仕の者が強いもてなしの心を持っている場合、それを旨味として受け取っている可能性が考えられる。人間である彼が、この違いをどう感じているのか聞いてみたい。 「昴、とても美味しい──」  な、という最後の一音が彼の視線に飲み込まれた。  一口食べただけの食事を置き、ひどく優しい顔をした彼は、とろりと蜜を垂らしたような瞳で俺を見つめていた。  その、惜しみのない慈しみが示すものを数秒遅れて理解した時、不思議な程鮮やかに感じる食事の正体を知った。  何も、作り手だけではない。この身は同席する者が俺に対して抱くものもまた、糧とする。  手の中の物が落ちそうになる感覚で我に返り、慌てて持ち直す。それを見た彼が、ふっと零した息が柔らかくて。熱くて。  ぶわりと彼から溢れて出た感情に包み込まれそうになる。逃げなくては、と反射的に身を引こうとしたが、すぐ後ろは壁だった。  どうしよう。人間ならばこんな時、何と理由を付けて席を立つだろうか。  けれど、テーブルの横をすり抜けるには必然的に彼の横を通る事となり、どうシミュレートしても熱を帯びた彼の手に捕らえられてしまう。  遙、と優しく引き止められ、手首をそっと意地悪く撫で上げる指の腹の感触に、もっとどうすれば良いか分からなくなる自分が容易に想像出来た。駄目だ。そんな事を起こしてはならない。 「早く食べないと、冷めてしまうぞ。」  だから、もうそんな風に見るな。  だな、といつも通りに相槌を打っているように見せて、尊さを噛み締めるようにするな。  ……酷いじゃないか、こんなの。  幾つかの情報が、こういった時は『味がしない』という表現が当て嵌まるらしいと告げている。相変わらずこの身は、香辛料の風味も、油分を洗い流す飲料のすっきりとした飲み口も、暖色の明かりと軽快な旋律が店内をより情緒豊かにする様も、劇的なまでにはっきりと感じ取れてしまう。  無心になろうと懸命に食物を口に運ぶこの身は、心などそもそも持っていない事を忘れてしまっているかのようだった。 ◆◇◆

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