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第12話 春風が包む町
ひどい自己嫌悪で目を覚ますのは、その日一日を暗く過ごすはめになるから、できれば遠慮したい。
今朝、エミリオはいつものようにサンドイッチを買いに行くと顔色を心配されてしまった。昨日の夜のことが脳裏をよぎると、自己嫌悪に苛まれて深い深いため息をついてしまう。
理由はわかっている。どうしても熱から逃れなくて、二度目、三度目と自身を慰めてしまったせいだ。
あんなこと本当はしたくないのに、身体が暴走して結局慰めずにはいられなくなる。
それを『汚らわしい』と思って自己嫌悪に陥ってしまうのがエミリオの癖だった。
「えみりお、こんにちは」
俯きながら返却された本を棚に戻していると、小さな女の子が足元で声をかけてきた。両手で絵本を一生懸命持って、差し出している。
「こんにちは、シェジャ」
「これよんでほしいの」
「ねこさんのご本だね。いいよ、あっちで座って読もう。ところで、お母さんは――ああ、こんにちは、シェーネさん」
少し遅れて母親のシェーネが娘の元へ駆け寄ってきた。優しいクリーム色の長い髪が揺れている。生まれつき話すことができないシェーネは、首を傾げて娘に何をしているのか問いかけた。シェジャは「えみりおにね、ねこさんのごほん、よんでもらうの」と満面の笑みで答える。
しかしシェーネは慌てて頭を下げて、首を横に振った。エミリオが左手に持っている数冊の本を見て、返却中だということに気づいたようだ。
「気にしないでください、僕は大丈夫なんで。読んであげてもいいですか?」
申し訳なさそうにぺこりと頭を下げるシェーネに笑顔を向けると、「えみりお、はやく!」とシェジャがズボンを引っ張って急かしてきた。
「うん、わかったから、図書館では走っちゃだめだよ」
飛び跳ねるように走りながら、シェジャは子ども用の椅子があるところまで向かう。とても楽しそうな笑い声に、暗い気分もいつの間にか飛んでいってしまった。
***
仕込みを終わらせたジェスは、ちらりと時計に目をやった。
開店時間までまだ時間がある。
そんな時に思いつくことはいつも同じだ。
「……図書館行くかぁ」
これまで本なんて読んでこなかった自分が、今では図書館通いしているなんて笑ってしまう。
静かで落ち着いていて、ゆっくりと時が過ぎていく特別な空間。
自分が営む酒場とは正反対の場所だ。
「着替え着替え……」
酒場の二階には自室の他に、旅人たちが泊まることのできる小さな個室が四部屋ある。
利用者は多く、満室になることもあるが今日は誰もいない。今なら店を空けても大丈夫だ。新しいシャツに着替え、ジェスは軽快に階段を降りていく。
機嫌よく鼻歌を歌いながらドアに鍵をかけ、優しい春風を感じながら歩き出した。
早くエミリオに会いたい――新しい本でも、穏やかな空間でもなく、ジェスが図書館に行く目的はエミリオにある。彼に会うために通っていると言ってもいいほどだ。
(来てくれねえんだもんなぁ、俺の店)
エミリオが酒に弱いことは知っているし、無理して飲ませたいとも思っていない。付き合いで酒を飲むような同僚もいないし、エミリオが自ら進んで顔を出す場所といえば教会くらいだ。
ジェスは、もっとエミリオのことが知りたいと思っていた。
人付き合いがあまり得意ではないエミリオに、どうすればストレスをかけず親睦を深めることができるのか。そのことばかりが頭に浮かぶ。
それもこれも、すべてはエミリオが自分に向ける視線のせいだ。
(つーか、あんな目で見つめられたら気になっちまうのが人間だろ)
あの熱っぽい視線を向けられて、何も感じないほど鈍感ではない。
だから自然と図書館に通ってしまう。料理の勉強のためというのは嘘ではないが、本音を言えばそういうことだった。
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