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第13話 エミリオの声

 それにしても、エミリオは恋を知らないのだろうか。  ジェスは道すがらそんなことを考えた。エミリオのジェスに対する反応は、経験がなく自分の心に戸惑っているふうに見える。  それを可愛いと思ってしまう自分にジェス自身戸惑っているが、悪いことだとは思っていない。これが恋なのか好奇心なのか、実はまだわかっていないが、少なくとも好意を抱いていることには違いない。 (こんなの、もう縁のないことだと思ってたけどなぁ)  今年で三十四歳。ジェスはこれまで自分の気持ちに素直に従って生きてきたし、これからも当然そうして生きていくつもりだ。  この胸にあるじわりと優しいぬくもりに包まれるような気持ちは、大切にしていたい。  赤レンガの建物が見えてきて、午後の緩やかな風を肩で切ってドアに手をかける。 「――あれ」  図書館に足を踏み入れたらすぐ目に入るカウンターに、エミリオの姿はなかった。  本棚の方にいるのかと思ってきょろきょろとしていると、どこかからあの柔らかい声が聞こえてくる。男にしては少し高く、聞いていて耳障りのいい優しげな音。  子どもたちのために作られたカラフルな椅子が並ぶコーナーに、エミリオはいた。  小さな女の子の前で絵本を開き、それを読んで聞かせている。その傍らには微笑みを浮かべて見守る女性がいた。女の子もそばにいる女性もエミリオの朗読に聞き入っているようだ。 (そうか、彼女は確か声が……)  慣れたように絵本を読み上げ、時々本に描かれている絵を指差して女の子と話すエミリオはとても楽しそうだった。  ジェスは柱に背を預けてエミリオの読み聞かせに耳を澄ませる。自分の前でも緊張したりせず、自然な姿を見せてくれたらいいのに。つい声に出して笑ってしまい、その声でエミリオがこちらに気づいてしまった。目があって、エミリオは少し照れながら頭を下げる。 (かわいーのな)  エミリオの笑顔を見て、自然とそんなふうに思ってしまう自分に驚きつつ、手を振って挨拶をした。  女の子は夢中になり、くるくると表情を変えながらエミリオの言葉に耳を傾けている。  絵本の内容は至ってシンプルだ。主人公の子猫が住んでいる町の中を冒険するという可愛らしい物語。ラストは子猫が母猫の元に帰りつき、二匹で仲良く眠りにつく。紡がれた物語はエミリオの優しい「おしまい」の一言で幕を閉じた。 「ありがとう、えみりお!! おもしろかった!!」 「いえいえ、お粗末さまでした」  にこにこして女の子の頭を撫でるエミリオは、そばの女性にもぺこりと挨拶してその場を離れた。そして、ジェスのそばに歩み寄ってくる。 「こんにちは、ジェスさん」 「お疲れさん。お前さんが読み聞かせなんてやってるの、初めて見たな」 「そう、ですね……なんだか恥ずかしいです」 「んなこたねえよ。聞いてて俺まで癒された。ちびっ子も喜んでたし、すごいな」  ストレートに褒めるとエミリオは顔を赤くして俯いた。  こういうところが可愛くて、ついつい構ってやりたくなる。 「……教会で一緒に育った子どもたちに、よく読み聞かせをしてあげてたので……それで多少、慣れてるのかもしれません」 「そういや教会育ちって言ってたな。いいお兄ちゃんじゃねえか」 「あ、あんまり持ち上げないでください……本当に……」  困っている顔が可愛くて、もっと見ていたいたくなる――。  どんどん真っ赤になるエミリオをこれ以上褒めたらどうなってしまうのだろう。気になったが、あんまり困らせてもかわいそうだ。ジェスは「今度は俺もなんか読んでもらおうか……なんてな」と冗談を言ってから、新しく入ってきた料理本のところに向かった。  去り際、目の端に胸の辺りで手をきゅっと握るエミリオが映る。その手を上から包み込んでやりたい気持ちになるのは、エミリオが庇護欲を掻き立てる存在だからだろう。 (……この俺が、またこんな気持ちになるなんてなぁ)   黒髪をかき上げて、ふと真顔になる。  エミリオのことがもっと知りたい。そんな気持ちになっている自分に、顔にこそ出さないが、胸の中は驚きでいっぱいになっていた。

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