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第19話 ジェスの酒場-1

 家に帰り着いたエミリオは、湯を沸かして紅茶を入れ、時間が来るまで落ち着かない気持ちで読書をしていた。  興奮と緊張のせいでなかなか書いてある文章が頭に入ってこない。落ち着こうと思って紅茶を口にしても、深く息をついても、あまり効果はなかった。  そうして時間が過ぎるのを待ち、ようやく12時手前になった。  今から家を出れば、ちょうどよく酒場まで辿り着くだろう。 (もうすぐジェスさんに会える――)  そう思うだけで、自然と笑顔が溢れる。少し肌寒いから白いシャツの上に淡いブルーのカーディガンを羽織ってエミリオは家を出た。  気分が違えば見える景色も違って見える。  普段より少し彩りが豊かに感じる道を歩き、久しぶりに酒場へと向かう。  最後に酒場に行ったのは、半年前だろうか。町の会合の後に皆でジェスの酒場へとなだれ込んだのを覚えている。エミリオは酒に弱いので断ろうとしたのだが、結局流されて酒場に連れて行かれてしまった。  そんな時、酒の代わりにこっそり葡萄ジュースを出してくれたジェスにときめいたのは言うまでもない。  優しくてかっこいい、そんなジェスのことを思いながら歩いていると、気づけばすぐ目の前に酒場が見えてきた。  素朴な木造の酒場から、ふわりと美味しそうな匂いが漂ってくる。 「ジェスさん、エミリオです。入ってもいいですか……?」  入口の前に立ち、声をかけると中から朗らかな声が帰ってきた。 「おう! いらっしゃい!」 「お邪魔します」  軋むドアを開けると、厨房に立つジェスが手を拭いながら出迎えてくれた。ジェスは髪を後ろで束ねていて、いつもの黒シャツの袖を捲り上げている。男らしい姿に、エミリオは心臓が騒がしくなるのを感じた。 「美味しそうな匂い……」 「ああ、お前さんのためにどれも丹精込めて作ったんだ。とりあえず、そこに座ってちょっと待っててくれ」  そこ、と言われて広い店の中を見渡すと、ひとつだけランチマットが敷いてある席があった。木製の少し重たい椅子を引き、エミリオはそこにちょこんと腰掛ける。振り向くと、大きな鍋をかき混ぜるジェスの姿を見ることができた。仕事をしているジェスの顔はとても真っ直ぐで、真剣で、その姿を見れただけでも幸せなのに、その上ジェスの手料理まで食べれるなんて。  エミリオは高鳴る胸を押さえて呼吸を整えた。 「この匂い……クリームシチューですか?」 「ああ。こういうの好きそうだなって勝手に思ったんだが、どうだ?」 「大好きです!」 「はは、そうか。そりゃよかった」  喜ぶエミリオの顔を見て、ジェスも微笑んだ。そして、あたたかいシチューの皿が運ばれてくる。大きな野菜がゴロゴロと入ったシチューを前にして、エミリオはきらきらと目を輝かせた。その姿がまるで子どものようで、ジェスは口元を押さえて笑いを堪える。 「食ってみな」 「いただきますっ!」  一口頬張ると、野菜の甘みとシチューのコクが一気に広がって、思わず「んんー!」と声が出てしまった。幸せいっぱいの笑顔を向いの席に腰掛けたジェスが微笑みながら見つめている。それに気づいて、エミリオは少し顔を赤くした。 「食事……してるところを見られるのって、ドキドキします」 「そうなのか? 俺は見ていたいんだが、席を外そうか?」 「いや! あの、なんていうか、素の表情が見られちゃうから、恥ずかしくって……」 「素の表情は見せてほしいな。俺の料理で笑顔になってるところ、見ててこっちまで幸せになるからな」  ジェスは笑ってそう言った。一口ずつシチューを口に運ぶエミリオの顔を、ジェスは頬杖をつきながら眺めている。 「エミリオはなんでもかんでも緊張しすぎだな。もっと気楽にしてていいと思うぜ」  ここまで緊張するのはジェスの前だからだ、なんて言えずに、エミリオは複雑な表情で笑う。気楽にいられたらいいのにと思うけれど、好きな人の前で緊張しない人間がこの世にいるものか、とも思う。 「あー、しかしハンカチの件は本当に助かったよ、ありがとな」  ジェスの口からあのハンカチの話題が出て、食事の手がぴくんと止まった。ジェスがとても大切にしているハンカチ。名前の刺繍が入ったそれは、きっとジェスにとって思い入れのあるものなのだろう。 「いえ、僕は何も。たまたま図書館でハンカチを見つけただけですよ。こんなに素敵なお礼をしてもらうほどのことは……」 「俺にとってはそんだけしても足りないくらい、ありがたいことなんだよ」 「とても大切なものなんですね」  ああ、いけない。エミリオは曇った表情から焦って笑顔を作ったが、我ながら下手くそな笑顔だったと思った。 「ああ。あのハンカチは俺の半身みたいなもんだ。それを失くしたら、俺の中の大事な記憶まで失っちまいそうで怖くてな」 「大事な記憶……?」 「って、悪い悪い。わけわかんねえこと言っちまった。気にしないでくれ」  ジェスはそう言って立ち上がると、ポケットに手を突っ込んで厨房の方へと向かった。  ハンカチが、自分の半身――?  その意味がよくわからなくて、エミリオはその言葉を何度も咀嚼する。  それでもやはり、わからない。ただ、ジェスにとってとても大切で、特別なものなのだということが改めて思い知らされた。 (ジェスさんのこと……もっと知りたいな)  エミリオは素直な気持ちを胸にしまい、スプーンを持ち上げて口へ運んだ。シチューはとても美味しいのに、どこか切ない気持ちになった。

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