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第29話 日常

 爽やかな風が吹き抜けていく。  図書館への道を歩くエミリオの足取りは軽かった。  新緑がきらきらと輝いて、心も弾む。  いつもより明るい笑みで出会う人々に挨拶をしながら、エミリオは図書館へ向かっていた。 「おはよう。いい顔だな、エミリオ」  道すがら、声をかけてきたのはウィズリーだった。最近道端でよく出会う彼に、にっこりと笑って挨拶をする。彼はジェスとの恋路の味方だ。エミリオは無条件に心を許していた。 「おはようございます、ウィズリーさん。巡回ですか?」 「いいや。外の空気が澄んでいるから、ちょっと散歩しに出ただけだ」 「わかります。気持ちいいですよね」  軽く会話をして、別れ際にふと思う。ウィズリーの家はここから離れた町はずれにあったはずだ。そこから散歩に出て図書館近くまで来るなんて珍しい。浮かんだ疑問をそのまま問いかけるのは、ウィズリーのプライベートに踏み込みすぎだと感じてエミリオは口をつぐんだ。 「では、俺はもう行くとしよう。良い一日を」 「ええ。ウィズリーさんも」  別れ際、ウィズリーはふわりとエミリオの頭を撫でていった。  驚いて「えっ」と声を出したが、ウィズリーは気にも留めずに去っていく。  秘密を共有している間柄とはいえ、昨日の今日でこんなに距離が近くなるものなのだろうか。よくわからなかったが、気にするほどのことではない。弟のように思ってくれているのかもしれないし、あまり気にしていてはウィズリーに失礼だ。 (……ジェスさんみたいに、大きな手だったな)  その瞬間、エミリオははっとして懐中時計を見た。始業時刻までもう時間がない。いけない、と思ったエミリオは小走りになって図書館へと急いだ。 ***  平日の午前中はあまり人が来ない。気を抜いたら陽気に誘われて居眠りをしてしまいそうになる程、図書館は静かだった。ジェスがもし来るとしたら、午後からだろう。  エミリオはジェスと会った時にどんな顔をしたらいいんだろうかと、ずっと考えていた。   しかしそう簡単に答えなんて出るはずもなく、自然の成り行きに任せることにするしか方法が見つからなかった。 (きっと、顔が緩んじゃうんだろうな……それじゃ周りの人たちにバレちゃうよ)  今月はいつ王都へ出向いて書籍を購入するか、その日程を考えながら小さなため息をついた。 「悩み事かい? エミリオ」  カウンター越しに話しかけてきたのは、作家のアイリーンだった。彼女は美しいブロンドを腰のあたりまで伸ばし、深い海の色を映した瞳をいつも輝かせている。 「アイリーンさん。お久しぶりで――」 「君、何か人には言えない悩みを抱えてるね?」 「えっ」  あまり人の話を聞かない性分のアイリーンは、肩掛けのバッグの中からノートとペンを出してきた。 「何の悩みかな? 人間関係、仕事、恋愛……あたしに聞かせてごらんよ。次の作品のネタにするから」 「あ、いえ、そんなネタになるほどの悩みは……」  アイリーンは目を輝かせてエミリオに迫ってくる。彼女の創作意欲は素晴らしいけれど、こんなふうに迫られては困ってしまう。人に話せるような悩みでもないし……と苦笑していると、アイリーンは大げさにため息をついた。 「そうか……ザンネン。大人しい青年の恋愛事情とか、聞いてみたかったんだけどなぁ。そうかそうか……ところで次に王都へ行くのはいつ?」  肩を落とすアイリーンは、すぐに立ち直って別の話を切り出した。この切り替えの速さは見習いたいところだ。 「ええと、月末にしようかなって思ってます」 「なるほど。それじゃあさ、ヒューネルの新作の詩集が読みたいからお願いしてもいい?」 「ヒューネル・コールマンの新作ですね。わかりました、探してきます」 「ありがとう! 楽しみにしてるから、よろしくね。あ、それと……」 「なんでしょうか?」  にやりとアイリーンが不敵な笑みを浮かべる。カウンターに肘をついて、エミリオの胸の内を見透かしたように言葉を続けた。 「君、悩み事はないのかもしれないけど、いいコトはあったでしょ」 「い、いいこと、ですか……?」 「表情がまるで違うもん。羨ましい。あたしも何かいいことないかなあ。本がいきなりベストセラーになっちゃうとかねー」  アイリーンはそう言いながら、黒いスカートをひらりと翻して出口の方へ颯爽と歩いていった。 「……こわい」  そんなに気が緩んだ表情をしていただろうか、とエミリオは焦った。  女性の勘というのは鋭いなと思いつつ、手帳にリクエストされた詩集をメモしておいた。

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