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第36話 影

「で、こんな感じでなんか参考になったぁ?」  クッキーを口の中に放り込み、アイリーンはエミリオに問いかけた。足を組み替えて首をかしげる彼女には余裕が見える。 「あたし、ふわふわしたことしか言ってない気がするけどさ」  エミリオは「そんなことないです」と笑ってみせた。  飄々とした彼女に救われている。エミリオは心からアイリーンに感謝した。  ひとりでごちゃごちゃと悩んでいても、深刻になって気持ちが暗くなるばかりだったろう。  こうして話をして、一緒にお茶でも飲みながら考えたほうが幾分か気が楽だ。 「エミリオくんがなんでそんなことで悩んでるのかは……わかんないことにしてあげるけど、なんていうか……純粋だねえ」 「純粋、ですか?」 「そう、純粋! とっても真っ直ぐ。素敵なことだよ」  そう言われても、よくわからなかった。自分が純粋かどうかなんて考えたこともなかったし、どちらかといえば欲にまみれた人間だと思っているのでアイリーンの言葉に違和感を覚えた。 「真っ直ぐでいつも誠実。だから愛されるんだろうね。町のみんなからも、ちゃんと愛されてる」 「…………」  不思議な気分だった。自分自身ではよくわからないことなのかもしれない。町の人たちはいい人ばかりだ。でも、この町の人々からしたらエミリオは“よそ者”に映っているはず。幼い頃からそう思って生きてきた。心のどこかに、いつもそういう思いが絡みついていた。  それがなぜ、愛されているとはっきり言えるのか。  エミリオにはわからなかった。 「あー、納得してない顔だ! わかりやすいぞ、青年」 「だって! だって、僕は……」 「信じられない? あたしが嘘ついてると思ってる? エミリオくんはそんなお馬鹿さんじゃないと思うんだけどな」  頭の中がぐちゃぐちゃになって、思考が止まってしまう。  アイリーンの言葉について考えないといけないのに、どうしても考えがまとまらなかった。 「ごめんなさい……僕がみんなから愛されてるって、簡単には信じられなくて……」  ようやく発することができた言葉はそれだった。本心だ。  その言葉を聞いたアイリーンは少しだけ驚いた表情を見せて、深く考えるように唸った。 「……エミリオくんに必要なのは“愛される勇気”なのかも」 「愛される、勇気?」  アイリーンの言葉を繰り返してみたが、その言葉の意味が自分の中にうまく入ってこない。意味はなんとなくわかるけれど、それを自分に当てはめて考えるのが難しかった。同時に、エミリオは自分が無意識にその言葉を拒んでいるような、引っ掛かりのようなものを覚えた。 「覚悟っていうのかなー……相手の想いを受け止める気持ち。自分には愛される価値がない、みたいな感情に簡単に逃げないっていう、覚悟……伝わる? あたし、なんか変なこと言ってたら教えてね?」  アイリーンはきっと、おかしなことは言っていない。ただ、今の自分には彼女の言葉を受け止めるだけの心の余裕がないのだ。エミリオはそう感じた。 「私の言ってること全部信じなさい、なんてことは言わないよ。けどね、これだけは信じて欲しいな。エミリオくんはちゃんとみんなに愛されてる! 絶対!」  ぐっと身を乗り出したアイリーンに強く言われて、エミリオは思わず仰け反った。勢いに押されてしまい、小さな声で「……はい」と返す。その様子に満足したのか、アイリーンは椅子に座り直してけらけらと笑った。 「なーんでこんな話になってるんだろ。脱線しすぎた! すまん!」 「い、いえ、大丈夫です」 「でも、本当に覚えておいてね。みんなエミリオくんのことが大好きなんだよ」  アイリーンの微笑みに、心が安らぐ。自分のことをここまで思ってくれて、優しく包み込むような言葉をくれる人は簡単には見つからない。 「……アイリーンさんに相談して、本当によかったです」  エミリオの嘘のない言葉に、アイリーンも満足そうに頷いた。 「じゃあ、あたしそろそろ帰ろっかな。もうこんな時間だ」 「それじゃあ送っていきます、夜道は危ないですから……」 「平気だよ、いつもこれくらいの時間に夜のお散歩してるし」 「だめですよ。何かあったらどうするんですか」  いいからいいから、とエミリオを制するアイリーンはくるりと回って、ドアに手をかけた。 「美味しい紅茶とクッキー、ありがと! おやすみなさーい!」  黒く軽やかな服の裾を翻し、アイリーンが出て行こうとドアを開けた瞬間、黒い人影がアイリーンの目の前に立ち塞がった。 「やだっ、なに!?」  驚いて声を上げたアイリーンがふらついて転びそうになるのを、その影が受け止める。  影の正体は、ジェスだった。

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