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第48話 日常

 エミリオは仕事に没頭することで、ふとした瞬間蘇ってくる昨夜の記憶を振り払おうとしていた。  普段よりも念入りに掃除をしたり、本棚の整頓にこれでもかというくらい集中してみたり。そんなふうにして一日を乗り切ろうとした。  朝、別れ際に頭を撫でてくれた感触がまだ残っている。ちょっと触れられただけなのに一日中嬉しくて、気を抜くと口元が緩みそうになった。 (ジェスさんのこと、もっともっと好きになっちゃうな……)  彼に愛した女性がいたことも、刺繍入りのハンカチの存在も、すべて受け入れるにはまだ心に余裕がない。けれど、ジェスのことを愛している気持ちは変わらない。  ジェスを残して亡くなった女性のことを思うと複雑な気持ちになってしまって、このままでいいのかという疑問が心に浮かぶ。 (……大好きな人を残して亡くなるって……どれだけ辛かっただろう)  自分は本当に、ジェスに愛してもらう資格があるのか。  昨夜の情事を思い出しても不安になってしまうのは仕方のないことだった。ジェスは“愛している”と言葉にしてくれたし、事実、ジェスはエミリオの身体に欲情してくれた。だけど、怖い。その思いは拭い去ることはできなかった。心が揺れて、本棚から抜いた本を両手に持ったまま動けなくなる。 (ううん……信じよう。ジェスさんの言葉も、触れてくれた手の熱も、全部本物だ)  アイリーンが言っていた。『エミリオくんに必要なのは“愛される勇気”なのかも』という言葉。それを思い出して、勇気を出さなきゃ、と自身に言い聞かせた。 「エーミリーオくーん?」 「わぁあっ!!」  突然背後から声をかけられて、振り向くとそこにはアイリーンの姿があった。たった今彼女の言葉を思い出したところだったから、エミリオは驚きのあまり裏返った声をあげてしまった。  アイリーンはそれを見てけらけらと笑っている。「びっくりした……」とこぼして大きく息を吐くと、彼女はさらに楽しそうに飛び跳ねた。 「あはは、ごめんごめん。昨日あの後大丈夫だったかなーと思って、来ちゃった」  昨晩、ジェスと入れ替わるように帰っていったアイリーンは、エミリオの心配をしてくれていたようだ。声をひそめてエミリオに問いかける。 「あんな深刻な顔したジェス、初めて見たからさ。何かあったのかなって」 「いや、あの、大丈夫です……! 本当に、ちょっとお話しただけ、なので……」 「……ふうん?」  疑われている。間違いなく。こういう時、うまくやり過ごせるほどエミリオは嘘が上手くない。笑ってやり過ごそうとしても、アイリーンの鋭い眼差しがグサグサと突き刺さる。いたたまれなくなって、エミリオは顔を近づけてくるアイリーンから後退りした。 「あ、あの……」 「それならいいんだけどさ! 意外だったんだよね、ジェスとエミリオくんの組み合わせ。エミリオくんって別にジェスのお店の常連ってわけじゃないしさ」 「ジェスさんはよく本を読みに来られるので……それで、お話するようになったんです」  なるほど、とアイリーンが頷く。ようやく彼女の猜疑の目から逃れることができそうだ。エミリオは安堵のため息をついた。 「あいつにいじめられたらすぐ言うんだよ。あたしが守ってあげるから」  にっこりと笑顔を浮かべるアイリーンに引き攣った笑みを返す。  いじめられることはきっとないと思う。……多分。そう思いたい。 「じゃ、用件はそれだけだから。いきなりごめんね」 「僕の方こそ、ご心配をおかけしてすみません」  頭を下げるエミリオを横目に、彼女は楽しげに去っていった。

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