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第71話 泣き虫のエミリオ

 ひとりぼっちで泣き出しそうな夜。小さなエミリオは教会にいた。 「おとうさん、おかあさん」と記憶にも残っていない両親を思い浮かべて、自分の運命を呪った。  小さなエミリオは泣き虫だ。怖いことがあったり、悲しいことがあったらすぐに泣いてしまう。  それは自分のことだけでなく、同じく教会で育ってきた子どもたちが転んで泣いてしまった時、つられて泣いてしまうほど、いつも泣いていた。 (泣かないで……大丈夫だよ)  小さなエミリオを上から見守るもう一人のエミリオがいた。  窓の外は冷たい夜だ。暗くて何も見えない。昼間にステンドグラス越しに差し込むキラキラした光は見えなかった。  寂しくて、怖くて、小さなエミリオはぐすぐすと泣いていた。  両親に会いたい。普通の子たちと同じように母親に甘えたりしたい。  親代わりの神父がいても、小さなエミリオはどうしても寂しさを堪えられなかった。 「なんでいなくなっちゃったの……なんでぼくにはおとうさんもおかあさんもいないの」  小さなエミリオを見つめる大人になったエミリオは、声が出せなかった。  手を伸ばしても触れることができない。  抱きしめて、大丈夫だと教えてあげたいのに何もできない。  無力さを感じて、ただただ泣きじゃくるエミリオを見つめることしかできなかった。 (大丈夫、僕は強くなったよ)  触れることができない小さな自分に心の中で囁きかける。  もう泣かない。誰かに守られてばかりの自分じゃない。  大きくなった今、大切な人を守る勇気を持つことができた。 (大丈夫、泣かないで。いま僕は――とても幸せだから)  突如、白い光がエミリオを包んだ。何も見えなくなって、思わず目を瞑った。眩しすぎる光は少しずつ柔らかくなっていき、だんだんとぼやけていく。 「……エミリオ? おい、エミリオ!!」 「ジェス。大きな声を出すな」  くぐもってよく聞こえなかった音が、だんだんとはっきり聞こえるようになってきた。  眩しかった光も消えて、目を開けるとぼやけた視界の中に大好きなジェスの顔があった。 「……ジェ、ス……さん……」 「気がついたのか、エミリオ!」 「ジェス! 患者の前で大声を出すんじゃない。どけ」  ジェスを押し退けるように白衣の人物が視界に入ってきた。  その人はエミリオの身体を細かく触り、聴診器で胸の音を聞いたりした。  知っている。この人はドクターのユーリだ。町の診療所の先生。少し荒っぽいところがあるけれど、患者思いの優しい人――。 「……せ、んせ……」 「しゃべるんじゃない」  ピシャリと言われて心の中で苦笑いをする。そうすると、腹のあたりがぎりぎりと痛むのを感じた。 「……ッ」  痛みに顔を歪めると、ユーリは軽く頭を撫でながら「痛いのは生きている証拠だ」と顔も見ずに言った。 「い、痛むのか……?」 「ナイフで腹を突かれて“痛い”だけで済んでるんだ、運がよかったと思え。そして俺の処置は完璧だ。何も心配することはない」  ユーリは立ち上がるとジェスに椅子へ座るよう促した。 「あまり騒ぐなよ。患者に負担をかけるようなら容赦なく追い出すからな」  そう言って、部屋から出ていった。  椅子に腰掛けたジェスはユーリが言った通り小さな声で、「エミリオ」と呼びかけた。 「は……い」  さっきまで見ていたのは夢だったのだと、エミリオは理解した。  掠れた声でジェスの呼びかけに反応すると、力の抜けた手をぎゅっと握り締められてドキドキした。 「よかった……よかった、目が覚めて……生きていてくれて……」  ジェスの目から雫が落ちる。泣いているジェスは、初めて見た。  ジェスの服は血まみれで、その血がきっと自分のものだと言うことに気づいて申し訳なくなってしまった。 「ごめ……なさい……」 「謝るな。悪いのは――」  そこでジェスは口ごもった。  あの男の名前を口にしようとして、苦い顔をしている。  友だったはずの男が、自分の恋人を襲った。それを受け入れられないけれど、その事実が彼を苦しめているようだった。 「……なんであんなことしたんだ」 「あんな、こと……?」 「俺なんかを庇って、こんな大怪我して」  強くなりたかった、なんて言ったらジェスはどう思うだろうか。  ウィズリーの刃の前に飛び出して刺されてしまって、結局迷惑をかけている自分のことを思うと、エミリオは情けなくて仕方なかった。  傷がずきずきと痛む。言葉もうまく出てこなくて、エミリオは泣きそうな顔でジェスを見つめる。 「いつもジェスさんに守ってばっかりだから……僕はいつだって、誰かに守られてばかりだから……自分で立ち向かいたかったんです……」  絞り出すような声で吐露するエミリオは、とても苦しそうな顔をしている。何かとんでもなく悪いことをしてしまったような気がして、ひどく罰が悪そうだ。  ジェスはその様子にため息をついて、エミリオの手を両手で包み込んだ。 「怖かった」 「え……?」 「俺の代わりにエミリオが刺されて、お前の身体から血がどんどん溢れてきた。お前を失っちまうんじゃないかって、怖かった」 「……ごめんなさい」  それからジェスは重ねるだけだった手を強く握りしめた。何も言わない。無言の時が過ぎる。  しばらくお互いに何も言えない時間を過ごしたが、震える声で沈黙を破ったのはジェスだった。 「……もう、大切なやつを失くすのは嫌なんだよ」  エミリオははっとした。きっと今、ジェスの心に浮かんでいるのは彼が愛していたあの女性だ。  辛い思いをさせてしまった。不安な思いを味わわせてしまった。  エミリオはそこで初めて、無謀なことをした自分を責めた。  けれど、自分が前に出なかったら刺されていたのはジェスだ。  そうなれば、ジェスだって生きていたかどうか分からない。  ――やっぱり、間違ってなかった。 「ジェスさん……」 「……ん?」 「僕、ここにいますよ。……ジェスさんを置いて行ったりしません」   痛みがじんじんと響くけれど、できる限りの笑顔を作って、エミリオは繋いだジェスの手を握り返した。

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