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0.儀式前日(5)
遥は桜木びいきだ。
しかし一族の中に、桜木に対する反感はまだ明らかに存在している。
その桜木が今の代限りとはいえ、一族に戻されたのも遥のせいだ。
新しい凰がかくも見事に証立てを成し遂げたことで、世話をした者には褒美が与えられる。一族外の世話係であれば、金品が与えられるのが慣例だ。大方の分家もそれを予想していたはずだ。
それが覆ったのは、披露目の直後に流れた噂が原因らしい。
『新しい凰は世話係の桜木をたいそうお気に召しており、今も桜木を呼べと騒いでいる』
これは桜木に会いに行こうとした遥を桜谷さえ子が止め、遥が不機嫌になったことが大げさに伝わったものだろう。
本邸の奥のやりとりがどうして本邸に滞在する分家にまで漏れていったのかはわからない。樺沢にしろ桜谷にしろ、奥のことは漏らさぬよう誓わされている。考えてみればおかしな話だ。
だが、この噂は分家に大きな動揺を与えた。
遥はやっと一族に戻ってきた正式な凰だ。凰は鳳を慕い、鳳も凰をかわいがっている。その凰の機嫌を損ねれば、鳳の不興を買うことは間違いないと考えたらしい。
物事の風向きを読むのにさとい分家が、条件付きとはいえ桜木を許すことを世話係の褒美にしてもよいと認めるのも当然の流れだった。
実際、仮の凰として遥が隆人のもとへ連れ戻された時点から、加賀谷精機の業績は上向いていた。この状況で新しい凰を悪く言う愚かな分家はない。だがすべてが遥や桜木に都合のいいように運ばれていることをこころよく思わない者は当然いる。しかもそれは分家の中だけとは限らない。
桜木を敵視する者達は、同様に遥をもわがままな凰だと思っているらしい。一族外の男の凰、男のくせに当主とセックスをする淫売と内心遥を蔑む者がいても不思議はない。自らが馬鹿にしている相手の言葉は素直には聴けないだろう。
それを抑えるために隆人は本邸の樺沢を統べる達夫にそう伝えたのだ。
いや。もしかすると「遥が桜木に墓参りを許すだろうから、それを認めろ」とはっきり言ったかも知れない。
結局俺は隆人の手の中なのだろう。だが、それが決して嫌ではない。。
前方から早足で上ってくるのは諒だった。
「これで全員そろったな」
遥は諒に手を振る。諒がぺこっと頭を下げた。
「ありがとございました」
桜木の墓参りも無事終わった。何かあったら、隆人にも達夫にも桜木にも多大な迷惑をかけただろう。そんな事態にならなかったことが単純にうれしく、遥は子どものように一段ずつ飛ばしており始めた。
「あ、遥様!」
達夫が慌てるのがわかったが、勢いは急に抑えられない。遥は一気に諒のところまで駆けおりてしまった。
諒は遥が転ばないように捕まえてくれた。
「ありがと」
息が弾んでいる。
「無茶をなさらないでください、遥様」
諒に釘を刺された。
「心臓が縮む思いがいたしました」
追いついた達夫にも叱られた。
「わかった。もうしない」
心の中ではこっそり、たぶんなと、付け足しておいた。
本邸に戻るとまず風呂に入れられた。墓所で思っていたより冷えた体が温まり、生き返る気がした。
その後の夕食は凰の部屋に用意されたが、そのテーブルいっぱいの食器に遥は心底呆れた。
「いったい何人前のつもりだよ」
給仕に来ている紫がにっこりと答える。
「遥様お一人のためにご用意いたしました」
精進料理というわけではないのだろうが、野菜類が多い。煮物、揚げ物くらいは遥でもわかるが、後は手が込みすぎていて何が何だかわからない。
「明日は潔斎の大晦でございますから、今日きちんとお食事をお取りいただきませんと、禊ぎの時に寒さが身に染みるとのことでございますよ。以前、隆人様がそう仰っていらっしゃいました」
碧の言葉に則之たちも同調した。
「我々もお世話をさせていただくにあたり禊ぎを行いますが、確かにきちんと食べていないと冬の禊ぎは身に応えます」
「さ、たくさんお召し上がりを」
そう言われては食べないわけにはいかない。
加賀谷の厨方 は料理が上手だった。そそのかされるようにいろいろ食べ、最後には苦しくなってしまった。時間も恐ろしくかかっていた。
食事が終わるとすることがない。食べ過ぎで動く気にもならない。本を読もうという気力もない。その上体調が万全であるには睡眠も大事だと言われると、寝るしかない。遥は早々に床に入った。
そう簡単には寝つけまいと思っていた。が、長時間の移動や、遠足同然の墓参りなどで疲れていたのだろうか。遥はすぐに寝入ってしまった。
気配、だった。
目を開けるとキスをされていた。それが誰かはすぐにわかった。遥は無意識に腕を上げ、隆人の首を抱く。
唇が離れるとき、隆人がもう一回軽くちゅっとキスをした。
「おかえり」
半分はまだ寝ぼけていたが、言うべき言葉は間違えなかった。
「ただいま。すまないな、起こして」
遥は思わず笑う。
「起こしてもいいって思っていたんだろう?」
「まあな」
遥から離れた隆人はジャケットを脱いで傍らの二人掛けの椅子に投げ出す。
スーツではないところを見ると、会社から直接この本邸へ移動してきたわけではないのだろうか?
遥はナイトテーブルの目覚まし時計で時間を確認した。午前二時半だ。
「少しは車の中で寝たのか?」
「ああ」
隆人は遥の部屋のクローゼットを勝手に開けて、自分のパジャマを出して着込んでいる。
経営者として合理性を重視するせいか、実は隆人は必要があれば自分のことは自分でやる男だ。むろん樺沢や桜木の手があれば任せるが、わざわざ呼び出してまでは使わない。
(ハンバーガーで食事をすませる男だものな)
ベッドの中から隆人を眺めていた。
着替え終わると当然のように隆人が遥の横に身を滑り込ませてきた。そして当然のように遥の身は抱き寄せられる。
「昨夜はちゃんと食べたか?」
「食べたよ。身が保たないとさんざん脅かされたから」
よしよしというように隆人が遥の背をぽんぽんと軽く叩く。そんな扱いは不快ではない。
「では禊ぎまで寝ておけ。体はできるだけ休ませておかなくては保たないからな」
思わず深いため息が口をついてでてしまう。
「何だ、いきなり」
隆人に顎を捕まれ、眼をのぞかれた。
「たいしたことではあるまい? 毎日禊ぎをして、俺と一緒にいるだけだ。難しいことは何もないぞ」
「俺にとっては禊ぎ一つをとっても、憂鬱なんだ。寒がりだから」
隆人が笑った。
「安心しろ。寒いなどと感じる余裕はない。むしろ突き刺すような感覚だ」
反射的に顔をしかめてしまった。
「最悪」
隆人に髪をなでられた。
「あまり考えすぎるな。考えすぎは雑念となって、よけい体に負担がかかるからな」
何と言われても、遥の愁眉が開くことはない。
「とにかく眠れ。それが最も大切なことだ」
「おやすみ」
他に言いようがない。
「おやすみ、遥」
相手がきちんと言葉を返してくれるのは、何となくうれしい。
遥は素直に目を閉じた。
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