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2.元日(1)

 何かの気配があった。  しかし金色(こんじき)の光がまぶしくて正視できない。ただそれは人の形をしているようだ。 『呆れた奴じゃ』  妙な言葉遣いだと思った。しかもその声は耳からではなく、頭に直接響いている。その声に聞き覚えがあるような気もする。  遥はこれは夢だと結論づけた。それが一番納得できる。  その間もそれは勝手に言葉を投げかけてくる。 『それほどにあの人界の鳳に(ほだ)されたか』  それがため息をついたのがわかった。 『数多(あまた)の雑念を引きずりし人界の凰など打っちゃってやろうと思うておったのに、無念じゃ。忌々しき(あかし)を負うたばかりではなく、こまで見事に人界の鳳に染めあげられしそなたでは、いかに我でもおいそれと手が出せぬ。さすが、かの小憎らしき(さき)の凰の息子じゃ。人の子の分際で母同様一筋縄では……』  独白のような言葉は途切れ、嘲りに変わった。 『まあ、よい。所詮そなたは人の子が選びし仮初め。半身(はんみ)――片翼に過ぎぬ。そを眺むるもまた一興じゃ。こたびはそなたを人界の凰と認めてやる。今しばらくは凰を名乗り、せいぜい鳳との睦言に励むがよい、今しばらくはな』  それの気配がふっと消えた。 (よかった……)  誰かが安堵したのがわかった。  遥がそう感じたのではない。気配はかすかだ温かい誰かだ。 『誰かいるのか?』  誰かは遥の問いに答えを与えることなく、溶けるように消えていった。  何もわからない。何が起きたのか。現れては消えていったものたちはいったい何だったのか。  疑問を抱える遥自身もまたその場からべりべりと引き離され、どこかへ向かって急速なスピードで引っ張られていった。  突然目の前が明るくなった。まぶしさに目をぎゅっとつぶる。 「遥!」  隆人の声だ。遥は用心深くゆっくりと目を開いていく。  隆人が上から覗きこんでいた。心配げな顔からほっとしたような表情に変わったのはなぜだろう。  その隆人の横には医師の亮太郎がいた。こちらは真剣な顔だ。胸に聴診器を当てられた。その冷たさに身をすくめる。  まぶしかったのは天井灯がついているからだった。もう灯りをつけていいのだろうか。 「胸の音は正常ですね」  亮太郎が聴診器を外した。  遥は隆人に訊ねた。 「俺どうしたんだ? 寝ちまったのか? そろそろ禊ぎの時間?」  隆人が泣きそうに顔を歪めたかと思うと、いきなりしがみついてきた。息が止まりそうになった。すぐに気がついた。隆人の体が震えている。 「どうしたんだよ、隆人」  遥の言葉に隆人ががばっと顔を上げた。 「止まったんだ、呼吸がッ、お前の息が止まった!」  目を丸くした遥に亮太郎が静かに続ける。 「隆人さんが直ちに人工呼吸を施したので、すぐに呼吸は戻りました」  遥は隆人を見つめ、怒っているようなその頬にそっと触れた。 「ありがと、隆人」  隆人の表情は苦しげだ。  亮太郎が隆人に訊ねた。 「救急車は、呼ばないのですね」  隆人が亮太郎をにらむ。 「外部の医者になど遥を診せられるか。しかも儀式中だぞ」  二人の会話に遥は手を上げた。 「俺なら大丈夫だ」  隆人がまた神経を尖らせたような口調になる。 「なぜそう思うんだ」  遥は布団に起きあがった。すかさず隆人の手で白の長襦袢が肩にかけられる。 「俺は人界の凰だ。人界の鳳たる隆人のつがいだ」  驚いている隆人の目を真っ直ぐ覗く。 「だから俺は凰として生きる。こんなところで死にはしない。安心しろ」 「遥……」  遥はあたりを見回した。 「で、年が明けたんだよな?」 「あ、ああ……」  遥はにんまりした。 「あけましておめでとう。もう何か食っていいんだよな?」  ちょうど何度目かの空腹のピークがまた押しよせている。 「遥……」  隆人の表情が微妙に揺れる。その変化を不思議に思っていたとき、腹がぐうぅと情けない音を立てた。 「ああ、ほら、鳴っちゃったよ。禊ぎまで間があるなら、何か食わせろ」  隆人が泣き笑いのような顔で言った。 「おめでとう。昨日は少し殊勝なところを見せたのに、また言葉遣いが逆戻りだな」 「年が変わっただけで言葉遣いが直るなら苦労しない。腹減った腹減った腹減ったー」 「うるさい――亮太郎、こいつはこんなことを言っているが、いいのか?」  隆人が亮太郎に話しかけたので大人しく待つ。返事次第では泣き落としに切り替えると遥は思う。 「始めに食べられるのは、『あれ』ですよね? 遥様のご希望には添わないかもしれませんが、あれならばまったく問題ありません」 「では、用意させよう」  隆人が世話係を呼ぶために両手を胸元にあげかける。  その手を遥はつかんだ。 「こら、何だ」  遥は隆人に手を叩かせぬようしっかり握って、二人の顔を交互に見た。 「『あれ』って、何?」 「出てくればわかる」  素っ気ない隆人と、苦笑する亮太郎は何も教えてくれなかった。  その二人の反応があまりに怪しく、遥は眉をひそめた。

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