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2.元日(5)

 元日の朝はよく晴れて、身を切るほどに冷え込んでいた。禊ぎの場は水面(みなも)から水蒸気が立ちのぼり、煙っている。水しぶきは朝の光に照らされて光の粒のように輝いている。  あまりの寒さに歯の根があわず、かちかちと音を立てるほどに震えているのに、遥は幸福感に満たされていた。  隆人に手を引かれて水の中に入る。予想を超えた冷たさに一瞬頭の中も体も硬直したが、励ますように握ってくる隆人の手に我を取りもどした。肩まで浸かってしまえば徐々に水温に馴染んでくる。  水の中で遥は隆人と口づけを重ねた。しっかりと抱きあって互いの温もりを感じ、冷水の中でさえ相手を求めて兆す欲望を確かめあう。  禊ぎという言葉の持つ禁欲的なイメージとはかけ離れた行為の生々しさは、紛れもなく生きている人の営みだ。鳳と凰の触れあう体と心の喜びが加賀谷の信仰の根本なのだ。  震えながら屋敷に戻ると、いつものように風呂を使った。当然のようにここでもキスを交わしていたとき、外から声が掛けられた。 「隆人様、精機より電話にて連絡が入っておりますが、いかが致しましょう」  声の主は紫らしい。 「出る」  即答した隆人が遥の体を離しながらも、また軽く唇に触れた。 「おそらく長くかかるから、お前は先に鳳凰の間に戻っていろ」  うなずいた遥は立ちあがる隆人を見あげる。  隆人は既に仕事のための思考に切り替えたらしく、遥を振り返ることなく浴室を出ていった。しばらくは脱衣所で人の気配がしていたが、それもすぐになくなった。  何だか急にがらんとしてしまった。四、五人は入れそうな浴槽もひどく広く感じる。寂しく虚しい。  遥はいったん肩まで浸かると勢いを付けて立ちあがった。  浴室の外には洋が控えていた。すぐに遥の体をバスタオルでくるみ、拭いてくれる。鏡に映る洋のようすを窺うと行儀良く遥の体から視線をわずかに反らしている。  洋はまだ高校一年生だ。湊など年齢の近い者に世話をされるのは慣れたが、どうも洋やその兄の基のような少年に世話をされるのはためらいがある。だが、彼らにとっては遥の世話をすることが役目だ。遥が彼らに対して遠慮を見せるのは拒絶や侮辱に当たる。  実はこれについて以前樺沢達夫に、お願いの形で釘を刺されたことがある。五家は加賀谷本家や鳳と凰に仕えることに喜びを得ている、それゆえ是非遠慮なく用向きを申しつけていただきたいと。  そして昨夜の隆人の話だ。隆人は当主として下につく者に役目を与えて達成させ、褒めて喜ばせる。隆人の次に身分が高いとされる凰の遥もそれに準じなくてはならない。自分の仕事に誇りを持つ世話係や樺沢家を信頼し、素直に受けいれなければならないのだ。  頭ではわかっているが、体がなかなかついていかない。  遥の戸惑いをよそに、洋は手慣れたようすで長襦袢を着せてくれた。続いて新品らしい白の長着を広げて遥の肩にかけてくれる。この年越しの儀に際し、遥一人のためにいったい何着用意されているのか。想像するのが怖い。  洋が帯を締めながら訊ねてきた。 「きつくはございませんか?」  少年から大人びた言葉が出てくるとやはり戸惑う。だが気遣いはありがたい。遥は微笑ってうなずいた。 「ちょうどいいよ。ありがとう」  遥の言葉に洋の頬にぱっと赤みが上った。うれしいのを(こら)えるような表情で「恐れ入ります」と頭を下げた。帯を結び終える横顔はまだ鏡に映っている。とても誇らしげに口元がほころんでいる。こんなに喜ばれたら拒絶など絶対にできない。  遥の足下のタオルや畳紙を手早く片づけた頃には、洋はいつもの大人びた顔をしていた。  出入り口の脇へ控えて、洋が外に告げる。 「凰様のお仕度整いましてございます」  それに答えるように戸が開き、そこには諒がいた。 「お迎えに参上いたしました」  遥は諒の後について鳳凰の間へ戻る。  廊下を歩きながら遥は考えていた。  加賀谷の人間は基本的に芝居をしているようだと前から感じていた。この本邸も、隆人が家族たちと住む別邸も、まるで映画のセットだ。  その中で遥はうっかり主役に選ばれた大根役者だと思う。周囲の世話係や五家といった名脇役たちが、未熟者を何とかフォローし、及第点の演技をさせようとしている。特に儀式では強く感じていた。  桜木も含めて決して遥の前では見せない日常という楽屋の顔があり、そこでは遥を厄介な主人と評しているだろうと予想していた。  だが、その考えは間違っていたと今日初めて知った。  役を務めること自体が既に彼らの日常なのだ。与えられている役をこなす中で彼らは本当に喜びを得ている。現に洋は遥が感謝の言葉を口にしただけで、あんなにうれしそうにしていた。あれは演技ではなかった。  凰として遥を敬いはしても本音は別にあると勝手に考えていた自分がとても恥ずかしい。

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