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2.元日(6)

 鳳凰の間についてすぐ、諒が心配そうにささやきかけてきた。 「どうかなさいましたか。ご気分でもすぐれないのでございますか」  遥は首を横に振る。 「俺って失礼な奴なんだなと、反省していたところ」  諒が目を見開き、もっと心配そうになった。  遥は諒に向き直った。 「諒にとって、凰って何? どんなもの?」 「は?」  目が更に驚きに丸くなっている。  遥は天井を仰ぎ見る。明るい朝の室内に梁によってできた枡目一つ一つを埋める鳳凰の絵はよく見える。 「こんなふうに鳳凰のための部屋を作って、それをずっと維持してきたわけだろう? それだけ大事なんだよな? 俺ごときをこんなに丁寧に扱ってくれているし」  再び諒に目を向けた。 「じゃあ、いったい加賀谷の人にとって凰ってのはどんな価値があるのと思われてるのかなと思ってさ。で、どう?」  諒が困惑しているのがわかる。  遥は朝になってシーツなどがすべて取り替えられてきれいに整えられた、鳳凰のための布団に腰を下ろした。 「ちょっと座れ」  凰の命令に諒も畳に正座する。遥が答えを促さないせいか、また考えに入ったようだ。  答えてくれるまで諒を待つつもりだった。だが、あまりの長考に苦笑が浮かんでくる。もしかしたらそんなことは考えたことはないのかもしれない。それならそれでひとつの答えだ。  不意に諒が顔を上げた。 「鳳様をお助けくださる方でございます」  諒は静かに言葉を続けた。 「これはわたくしの――あくまで桜木家の一人としての見解でございます。我ら桜木にとって鳳たる隆人様のご安寧とご発展は非常に重要なことでございます。それだけのご恩を隆人様よりいただいております。その隆人様のつがいたる凰様が心健やかに、また隆人様と仲睦まじくお過ごしいただけることで、隆人様は悪しき物事より守られます。隆人様は一族唯一の要。それをご守護いただくことが我らが凰様に切望するところにございます」  真っ正面から返された。  凰は鳳のために存在する。遥は隆人のためにここにいる。ここにいて、隆人とセックスをして、隆人を愛しいと思う――それが隆人にとって必要だから遥に対し桜木は尽くす、ということらしい。  この答えは桜木としては当然なのだろうが、言葉を一切飾ることなく返されたので驚きのあまり言葉が出てこなかった。  遥は適切な答えをもらった。なのに、少し残念な気がしているのはなぜだろう。 「――と、初めは思っておりましたが、今は我らにも変化がございます」  諒がにこっと笑った。 「我らは皆遥様をお慕いし、お仕えできることを心から喜んでおります」  思いもかけないことを言い出されてうろたえる。背筋がぞくりとした。 「遥様の素直なご性質、お振る舞いと率直なお言葉は我らのように加賀谷の中しか知らぬ者には刺激となります。違う考えや見方があるのだと日々教えていただいております。凰としてではなく、遥様が遥様でいらっしゃるのでお仕えしたいと望んでおります」  諒が畳に手をつき、深く頭を下げた。 「なにとぞ末永くお仕えさせていただけますよう、お願い申し上げます」 「な、何を言うんだよ」  恥ずかしさに顔も体も熱い。 「隆人みたいに上品に振る舞えないし、気短いし……」 「遥様のなさりたいようになさってください。我らは従者、従う者でございます。ついて参ります」  持ちあげられるのは慣れていない。遥は赤くなっているはずの顔をうつむけ、小さな声で訊ねた。 「俺は凰として役に立っているのか?」 「はい。それはもう見事にお役目をお果たしでございます」  遥はふと思った。 「俺が行方をくらましてから連れ戻されるまでの間は、どうだったんだ? 凰がいないってことは隆人の望み通りではなかったんだよな」  諒が迷ったような顔を見せたとき、襖が開け放たれた。 「ああ、その通りだ」  隆人がまっすぐ遥の側へ来た。手を取られて立ちあがらされた。 「さ、食事の時間だ」  いきなり横抱きに抱き上げられ、思わず隆人の首にかじりついた。子どものように楽々と抱き上げられて運ばれることは遥の体格コンプレックスを刺激する。だが下ろせと言っても効き目がないのはわかりきっていた。  恥ずかしさに目をつぶり任せていると、足早な隆人の巻き起こす風を感じる。頬に触れる空気の流れや髪を梳く冷気で、廊下や縁側にエアコンを設置した鳳凰の間からずいぶん離れたのだとわかった。  やがて隆人の足が止まり、目を開きかけた遥はまぶしさにきつくつぶった。 「ついたぞ」  囁かれて、今度はゆっくり瞼を上げる。  下ろされた場所は、さんさんと日の降り注ぐ全面ガラス張りの温室のような小部屋だった。緑を植えた鉢植えも置かれている。 「ここは……?」 「祖父が、凰の御印を持って生まれ、本家(うち)に引きとられた母のために作らせたサンルームだ。母は子どもの頃、よくここで遊んでいたらしい」 「前から東京に住んでいたんじゃないのか?」 「祖父は東京とここを頻繁に往復していた。生活の本拠を完全に東京に移したのは俺の父だ」  隆人の答えは淡々としていた。

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