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2.元日(7)

 床の絨毯の上に更に赤い毛氈が敷かれ、座布団が二枚、その前に四段の重箱の膳と、取り皿や箸などの載った膳が二つ。脇に置かれた盆の上には茶器が用意されていた。  促されて座布団に腰を下ろし、遥はすぐに茶の仕度を始めた。隆人の視線を感じる。 「食事の間くらい鳳凰の間とは違う場所で過ごした方が気が休まるかと思って、ここに用意させた。ここは中奥(なかおく)だから、世話係を遠ざけて二人きりになれるしな」  二人きりという言葉に顔が熱を帯びる。  隆人はどうして遥の望むことがわかるのだろう。鳳凰の間の忌まわしい歴史を聞いた後では、確かにあそこで食事をしたいとは思えずにいた。礼の言葉の代わりに膝立ちして隆人にキスをした。その遥の体に隆人の腕が回され抱きよせられた。 「そんなことをすると料理よりお前が欲しくなる」 「腹は減ってないのか? それとも鳳は時々何か食べているのか?」  頬にされるキスがくすぐったくて身をよじりながら訊ねると、隆人に髪を撫でられた。 「いや、お前と同じだ。大晦は鳳、凰ともに潔斎のため食事は摂らない」  少し疑っていた遥は茶碗に急須を傾けながら、そうなんだとつぶやき恥ずかしさを隠した。  茶を隆人の膳にどうぞと置くと短く礼を言われ、そのまま話が続けられた。 「凰の食断ちが四日間の時代に反抗的な凰を服従させる目的があれば、鳳は凰の前で食べただろうな。睦まじければ鳳は自分も我慢したか、凰から隠れて食べたはずだ。その食絶ちも鳳と凰の関係の深さによって拡大解釈されたり、定め自体を変更したりで徐々に短くなって、今の大晦一日になった」  茶を口にした隆人が笑った。 「久しぶりにまともな茶を飲んだな」  遥も一口茶を飲む。確かに香りが高く緑茶本来の甘みの煎茶だ。 「ああ、本当だ。うまい」  思わず笑みがこぼれた。  隆人に勧められて重箱の蓋を取った。 「わあ……」  華やかな色合いに思わず声をあげてしまった遥は、恥ずかしさにうつむいた。 「恥ずかしがらなくていい。そうやって喜ばれた方が作った者もうれしい」  隆人が一の重をはずすと二の重が現れた。蓋を置いた遥が二の重をおろす。そして隆人が三の重を取ると与の重が見えた。 「すごいな。実物を見たのは初めてだ」  裕福でなかった父と子の食卓には重箱に詰められたお節料理など絶対に出てこなかった。逃亡生活中ではなおさらだ。遥にとってのお節料理はテレビの画面で眺めるものだった。 「これ、何?」  その中のひとつを指して訊ねると、隆人が丁寧に答えてくれた。 「かまぼこは当然わかるな。栗きんとん、ゆり根、伊達巻き、錦玉子、金柑の甘煮。いわゆる口取りだ。見た目を重視して一の重に入れているらしい。田作り、数の子、黒豆は祝肴(いわいざかな)だ。今年は数の子は二の重に入れてあるな。二の重は本来酢の物を入れる。なますに菊花かぶ、求肥巻きにたたきごぼう。これはコハダの酢締めだろう。三の重は煮しめだから、だいたいはわかるだろう。里芋に筍、人参、椎茸、蒟蒻(こんにゃく)、蓮根、牛蒡(ごぼう)。これはくわいだ。与の重は焼き物で、鯛、車海老にいかの松笠焼きで、これは鶏肉か」  立て板に水のごとき説明に、遥は唖然として隆人を見つめた。その隆人が急に首を捻った。 「そういえば五の重ははずしてあるな」 「本当は五段なのか?」  驚いた遥に隆人が軽く首を振った。 「五の重は控えの重と言って、中は空だ。来年はそこにも中身を入れられるようにと繁栄を望む縁起物らしい」 「これ以上欲張ってどうするんだよ。十分じゃないか」  思わず飛びだした言葉を隆人に苦笑された。 「まあ、より良い年を求める前向きさの表れだな」  非難したような(てい)になってしまい、遥は慌てて話を変えた。 「この亀とか鶴とかはどうやって作るんだ?」 「包丁で筍を細工するはずだが?」 「すごいなぁ」  見とれてため息をついた。 「こんなことができるなんて、本当にすごい」  隆人が箸を手にした。 「何が食べたい? 取ってやろう」 「え? じゃあ、これ……」  何も考えずに指で示した先にあったのはかまぼこだった。隆人の説明では何が何か把握できなくて、つい食べたことのある物を無意識に選んでしまった。  隆人は膳の上にあった皿を取り、紅白のかまぼこを載せてくれた。 「ありがと」  自分の箸を取り、かまぼこを口に運ぶ。噛んでみて驚いた。見た目はスーパーで売られているかまぼこと変わらないのに、遥が食べたことのある物とは違った。歯ごたえも味も明らかに違う。素材が違うらしい。  おいしいものを食べられてうれしいはずなのに、いたたまれないような気持ちになるのはなぜなのか。  隆人が自分の皿に何かを取った。それを器用に一口分に切っている。 「つらそうな顔をして食べると、味がわからなくなるぞ」  遥は箸を置いて隆人を見た。 「俺自身は何も変わっていないのに、どうしてこんな上等なものが食べられるんだろう」 「お前が俺の凰になったからだ」 「セックスして祈るだけの存在に、本当にそんな価値があるのか?」  ずけずけと言ってしまってから後悔した。自分の放った言葉が胸に痛い。もう少し柔らかい言いまわしを選べば良かった。隆人も気を悪くしたかもしれない。ちらと上目にうかがう。  隆人はわずかに肩をすくめただけだった。 「お前からすると、凰とはそう思えるのかもしれないな。さっき諒に訊ねていただろう、お前が逃げ回っていた間のことを」 「うん」 「気になるか?」 「うん」 「なぜ? 凰が本当に必要かどうかを知りたいからか?」  その問いは胸に突き刺さるようだった。

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