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4.一月四日(2)
一月四日の午前十時半頃、やっと遥は加賀谷本家の本邸中奥 の自室に戻ってきた。
加賀谷本家と五家しか立ちいれない奥に足を踏み入れた時点で既に、肩が凝ったの早く脱ぎたいだのと世話係に愚痴っていた。鳳凰の部屋のドアが閉じられると、さっそく諒によって羽織の白い紐がほどかれ、羽織から解放された。寝室に入って湊が袴を脱がせてくれた。帯、長着、長襦袢と桜木総出で堅苦しい着物姿から解放してくれた。
今まで身につけていたのは羽二重の紋付き袴。長着も羽織も黒で袴は縞。紋は鳳凰。凰の第一礼装だ。
代わりに用意されたワイシャツに手を伸ばしながら、遥は世話係を見渡した。
「隆人がさっさと東京に戻ったのは、本当に仕事のせいなのか?」
脱いだものを片づける世話係たちは顔を見合わせている。その中から曖昧に微笑った則之が応えた。
「はい、そう承っております」
遥は口を尖らせながらボタンを留める。
「俺にはどうしても、分家の相手が面倒だったからに思えてならないぞ」
「それはわかりかねます。申しわけございません」
頭を下げた則之の向こうにいる桜木家の他の者は、顔をしかめる遥の視線から逃れるために自分の仕事に没頭している――ように見えた。
遥はため息をついてスラックスを穿く。
「堅苦しいのは性に合わない上に、分家は苦手だ」
「いえいえ、堂々としてご立派なご応対でございました」
「あれは全部達夫の指示どおりに言っていただけだ」
肩をすくめてベルトを留める。
夜明け前に隆人を見送ったあと、仮眠を取った遥が目を覚ますとすぐに達夫が現れた。遥が起きたら知らせろと桜木に指示があったようだ。
「年越しの儀を果たされし鳳凰様に新しき年の言祝 ぎを一言申しあげたしとの願いが分家衆より届いております。隆人様は既に東京へ発たれたと伝えましたところ、ぜひ凰様にお目にかかりたいとのことでございます。慶事の折でございますれば、なにとぞ方々へ拝顔の栄を賜りますよう、わたくしからもお願い申し上げます」
達夫の口添えと最敬礼を受けては、遥に断れようはずもなかった。
入浴と食事のあと、あっという間に羽織袴に着替えさせられ、九時からついさっきまで延々と各分家の当主や次期当主たちの新年の挨拶ににこにこと応対し続けたのだ。
「もう顔が筋肉痛になりそうだ。当分笑わないからな」
クローゼットの鏡に向かってネクタイを締めたあと、両手で頬の筋肉をほぐすようにマッサージした。背後で諒が帰り仕度をしているのが鏡に映っている。
「多くの家々が新年のご挨拶に参っておりましたね」
「てっきりこっちに住んでいる分家だけかと思ったら、東京からも来ていたじゃないか。披露目司をやっていた――誰だっけ?」
「泉谷 の宣章 様でございます」
「わざわざ来たんだよな。隆人はいないのにさ。ご苦労なこった」
遥には宣章しかわからなかったが、他にも東京組がいたのかもしれない。
鏡の中の諒が微笑んでいる。
くるりと身を翻した。
「俺、何か変なこと言ったか?」
「隆人様がお留守なのは皆存じております。毎年四日よりお仕事に入られますので。今日こちらへご挨拶にうかがった者は、遥様にお祝いを申しあげたかったのでございます」
「俺に?」
声が上がってしまう。
「はい。かくもご立派な凰様に感謝の念を伝えたかったのでございましょう」
思いがけないことに遥は諒をまじまじと見つめ、それから視線を落としてぽりぽりと頭をかいた。
「うーん。それならもう少し丁寧に応対した方がよかったか。俺なんかのために時間を割いてくれたのにな」
「ご謙遜を。端で拝見しておりました我らまで晴れがましく存じますほどの、見事な御応対でございました」
ほめられるとどうしていいかわからなくなる。うれしいというか、困るというか、照れくさいというか。結局遥はふっと息を吐くと顔を上げ、諒に向かって笑いかけた。
「ありがと、ほめてくれて」
今度は諒の方が困ったような顔で笑った。どうやら桜木の人間もほめられたり、礼を言われることは気恥ずかしいらしい。
世話係が荷物をまとめ終わった頃、遥は則之を呼んだ。
「どうなさいました?」
遥も則之も立ったままなので、遥は則之を見上げることになる。
「もうここを出るよな?」
「はい。お気が変わりましたか?」
遥は首を振る。
「そうじゃない。ここを出たら寄ってもらいたいところがあるんだ」
「どちらへ参りましょう?」
遥は唇を引き結んでから、答えた。
「瑞光院。父さんのところに寄っていきたい」
「かしこまりました」
則之が深く頭を下げた。
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