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4.一月四日(1)

 疲れ果てて熟睡していたはずだった。なのにベッドの揺れに、遥の目は開いた。室内は常夜灯の明かりのみで薄暗い。そんな中、隆人がこちらに背を向けて立っている。既にワイシャツは着ていて、どうやら靴下を履きおえたところのようだ。 「行くのか?」  驚いたようすで隆人が振りむいた。驚きはすぐにやさしい笑みに変わり、隆人がベッドに片膝をついた。裸の遥は起きあがって隆人の方に移動し、キスを交わした。隆人の手が髪を撫でる。 「起こしてすまない」 「起きられてよかったよ」  遥はナイトテーブルのボタンで天井灯をつけながら微笑った。目が覚めたとき、この大きなベッドでたったひとりだったら、たぶんつらかったはずだ。  きちんと見送れば、納得できる――そう思ったのに、頬を滑った隆人の手の温もりに胸の底から何かが込みあげてきた。それに突き動かされるように隆人に抱きついてしまった。どうしてこんなに苦しいのか、自分でもわからない。頭の中は仕方ないと冷めているのに、気持ちは胸が痛くなるほどこの別れを切ながっている。理性的な思考は感情に追いやられていく。  隆人の手が遥の背をゆっくりと撫でた。 「つらいと感じたら桜木に言え。できる限り都合がつくようにする」 「忙しいのにそんなこと言うな」  優しい言葉に腹が立ってくる。意地を張り通せなくなるではないか。  隆人がささやきを返してきた。 「お前にとって本邸での儀式と東京での日常のギャップは大きいだろう。まして年越しの儀を越えたお前が日常でつらい、寂しいと思うなら、それは正しい気持ちだ。俺には短い期間でも、お前には長いと感じているかもしれない。それは言ってもらわなくてはわからない。そうならないように十分に気をつけるが、お前からも言ってくれ」  遥は隆人の肩に額を押しあてる。 「なぜそんなに気にしてくれるんだ」 「実は家族でない凰が、疎外感から務めを果たせなくなった例は少なくない。いずれの場合も鳳が悪い。凰だとて人だ。証や印を持ったからといって、それで鳳への気持ちが永遠に続くわけではない。俺はお前をそんなことにはしたくない。それに俺自身も時間の許す限りお前の側に居たい。お前が呼べば秘書が考慮する」  遥を思いやる言葉は心にしみこんでくるようだ。だが、喜びを素直に表せない。 「俺を甘やかすなよ」  声の震えがうまく隠せない。 「そんなふうにやさしく言われたら、俺は狼少年よろしくしょっちゅう呼びたくなるか、あるいは意地で呼んでやるものかと両極端に走る」 「そうか。お前はそういう性格だったな」  隆人に苦笑されている。  肩の力が抜けた。その途端、急に目が熱くなり、涙がこぼれた。 「わっ」  うろたえて声をあげたために、隆人にばれた。  驚きの表情に思わず顔を背けた。しかし、その間も涙はぽたぽたと落ちていく。いっそ上掛けの下に隠れてしまおうかと思ったとき、隆人の指先が遥の頬に触れた。はっとして身を退く間もなく、隆人の手のひらに顔を包み込まれるように挟まれた。強引に上向かされる。身構えた遥の頬に隆人の唇が触れた。  隆人が涙の跡を唇で吸い、舌で舐める。その感触は生き物のうごめきのようでくすぐったい。 「やめろよ。何で普通にハンカチで拭かないんだよ」  涙で全然説得力のない自分の声が情けない。隆人もやめるようすがない。諦めて黙っていると最後に唇にキスをされ、目をのぞかれた。 「お前は俺のものだ。お前の身も心も俺は守る義務がある。だから言うんだ。苦しくなったら必ずはっきり言え。意地を張るな」  きっぱりと言った隆人の表情に、遥はうなずくしかなかった。  もう一度隆人の胸に抱かれた。 「肩が冷えたな。パジャマを着ろ」  隆人がクローゼットから取ってきてくれた。いいと言うのに、子どもにするように下着とズボンを穿かせてくれて、パジャマの袖を通すとボタンまで留めてくれた。はずかしいのに、心が温かい。  肩にガウンが掛けられたとき、隆人が視線を時計に走らせた。もう時間らしい。  寝室を出て、居間のドアの前で名残を惜しむようにまたキスをされた。 「行ってくる」  隆人の手が髪を撫でた。 「行ってらっしゃい」  遥は微笑みかける。  もう一度唇を合わせてから、隆人は凰の部屋を出て行った。  隆人の唇の感触の残る唇に指先で触れ、つぶやく。 「早く帰ってこい」  胸が痛くなる。 「ちくしょう」  控えめにドアをノックされたようだが、無視した。足音も荒く遥は寝室に戻り、ベッドに飛びこんだ。  そこにはかすかに隆人の香りが残っていた。跳ね起き、慌ててベッドを出ようとしたその瞬間、ある言葉が頭に浮かび、身を固くした。 『つらいときには泣けばいいんだって』  それは、かつて遥が父に投げつけた言葉だった。  ため息がこぼれた。涙も。それと同時に言いようのない敗北感と後悔に襲われた。本当につらいときに泣いてしまったら辛さに負けそうで、泣くまいと意地を張りたくなることもあるのだと知った。  感情をため込むばかりで表に出さずに苦しむ父を心配するあまり、けんか腰に「泣けばいい」と言ってしまった。あの後、背を向けてしまったので、父がどんな表情をしていたのかはわからない。  父はいったん涙をこぼしたら、感情に歯止めがきかなくなることを恐れていたのかもしれない。遥という守るべき存在があるのに精神的に崩れたら、もう二度と悪意と闘えなくなる、だから泣くまいと決意していたのではないか。  それに引き替え、今の自分のこのざまは何なのだろう。こんなことで涙がこぼれる自分が信じられない。隆人が今日ここを出るのは昨夜からわかっていた。だからたっぷりと愛しあった。無事に自分のいる巣へ帰ってくることを祈ればいいだけではないか。そう思いながら遥は再びこぼれた涙を乱暴にぬぐった。  いったんベッドを降りて、乱れた上掛けを整えた。じっとしていたら余計なことを考えてしまいそうだ。  そのとき、ふと思った。鳳凰の間には鳳と凰のさまざまな因縁があるようだ。ならばこの凰の部屋がいわく付きでもおかしくはない。特にここは寝室だ。自らの意向を無視して凰にされた者、鳳の妻への嫉妬に苦しんだ者もここで寝起きしていたはずだ。当然セックスもしていただろう、ここに寝泊まりした凰それぞれの思いを抱きながら。  ごくりと唾液を飲み下す。それからあちこちに視線をやった。  家具も壁紙もカーテンも隆人の母の頃からまだ何も変えていない。相変わらず女性らしい雰囲気の部屋である。遥にはふさわしくない。  遥は心の中の何かを吐き出すように長く息を吐いた。苦笑いが浮かんでくる。  やはり本邸は苦手だ。歴史の積み重ねが、人々の感情の交錯があった場所はよけいな想像が湧いてくる。早く東京のマンションに行きたい。遥が東京に着く頃には、隆人も東京にいると思うと気持ちが不思議と落ち着いた。  遥は隆人の香りの残るベッドに再び身を横たえた。遠ざかって行くであろう隆人のようすを想像する。今はもう車の中だろうか。  気をつけて行けよ、俺もすぐそっちに行く――そう呼びかけて、灯りを消し目を閉じた

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