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第3話
そんな日常に充足を覚えはじめた頃、ひとりの少年と出逢う。近所のハイツに住むという彼は、私の家の出窓から時折見える、私が中学生の時に描いて気に入り、未だに額縁に入れ飾ってある絵を、見せてもらえないか、と訪れたのだった。彼ほど幼い少年が、美術に関心を持つなんて珍しい。
『お家の人は、君が出掛けていると知っているの?心配、しないかい』
『父は仕事で夜まで帰ってきませんし、余計なことはするな、という言いつけだけを守れば大丈夫です。』
『…そっか。ねぇ、私は構わないけど…もしかしたら、おじさんは怖い人かもしれないよ。君を、取って食べてしまうかもしれない。』
昔ばなしによくある表現を、頭に思い浮かべながら、やんわり警鐘を鳴らす。私のその言葉に、切れ長の大きな眼を見開いて、彼は破顔した。
『そんなこと、貴方はしないですよ。だって食べる人は、もっと優しい人間を演じるもの。』
名前は恵咲といった。母方の祖母につけてもらったのだそう。母親は離婚した今はもう別の家庭を持っていて、全く会えていないと…日々を過ごすごとに、ぽろりぽろりと置かれた状況を打ち明けてゆく。彼が、自分の生活に組み込まれつつあるのを感じていた。この時、彼は12才で私は27歳。何となく幼い少年と会う機会をさけて、生活していたが、いざ、それくらいの年頃の彼と時間をともにしても、思っていたような間違いは起こらず、一人の人間として、彼に接することが出来た。彼があまり良い状況に置かれていないことを知り、夕食をともにすることも増えた。暗くなった夜道を少年ひとりで歩かせるわけにはいかない、と近くまで送っていったりする日が増えた。悦木くんにも彼を紹介したりして、彼との関係を周知のものにしていったあの時の私は、やましいことは何もないのだと、言いたかったのかもしれない。そう。最初は、やましいことなど何もなかったのだ。ただ彼と純粋に美術の話をしたりするのが楽しいと、そう思っていた。
『清さんは…恋人はいないんですか』
自然な流れでそう問われて、不自然に間を空けてしまったことがあった。いないよ、今は仕事以外には考えられないんだ。そう彼に言ったところで、それが本当の答えではないことに彼は気づいただろう。眼がそう語っていた。けれど彼は、そうなんですか、とその話題を終わらせてくれた。気をつかってくれたのだと思う。恵咲くんは、私がとても丁寧な人間だと言った。人の痛みを考えられる人、だと。痛い思いをしたんでしょう、と。次いで彼は穏やかな声色で、痛かったね。でもだから、今の清さんがいると思うと…僕はそれで良かったと思う。清さんと出逢えて、とても嬉しい。と続けた。…全肯定をされた気持ちだった。年齢を越えて、彼という人間を、しっかりと意識した瞬間であった。私も…恵咲くんと出逢えて、本当に良かった。率直な感情をありのままそう伝えれば、彼は心底嬉しさの滲む表情で、はい、と返してくれた。怖いほどのどやかな日々を、享受する。そんな毎日のなか、ひょっこりたずねてきた友人は、開口一番に、顔色がすこぶる良いね、と言った。
『まさか…ついに恵坊をつまみ食いした?』
『相も変わらず不躾だね、君は。』
『冗談だよ。同意なくそんなことするなんて微塵も思ってないさ』
向こうがOKなら話は別だけど。
『…それでも犯罪だろう』
お前は相変わらずお堅いね。
『俺は今の男の教え子だった時からセックスしてたよ』
だって愛してたし。ま、今もだけど。
事も無げに彼はそう言ってのける。
『僕と彼はきっとそうはならないよ』
恵咲くんにとって僕は…
年の離れた友人でしかないと思う。
『…にぶちん』
ぼそりと言われたその言葉に
首を傾ければ
何でもないよ、と
肩をすくめられた。
満ち足りた日々を、謳歌する毎日。私にとっては、人生の春で。ずっと続けばいいと、乞い願わずにはいられなかった。
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