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第7話
土砂降りの日、鳴るはずのない呼鈴が響いた。唖然としていると、再度呼鈴が鳴る。おそるおそる一階へ降り、玄関に向かう。覗き穴から誰かを確認すれば、若い男がびしょ濡れで立ちつくしていた。もしかしたら遭難したのかもしれない。地元の人間ですらこの辺は迷う。扉越しにどうしたんですか、と尋ねれば、探し人がいてここまで来たのだと返ってきた。貴方の名前を教えてください、と次いで彼は言葉を続ける。フルネームを告げれば、彼はよろけて外壁にもたれかかった。倒れるのか、と慌てて鍵を開け扉をひらいて、彼に手を差し出す。大丈夫ですか、と問いかける前に、勢いよく腕を掴まれる。うつむきがちだった顔を上げ、私を見た。ああ…まさか。恵咲くん、と口をついて名前が出た。どこまでも黒く深い眼をして、彼は言った。やっと。やっと、見つけた。
『もう…絶対に離さないから』
痛いくらいに掴まれた腕から、じわじわと熱が伝わってくる。苦労をしたんだろうと、彼の目の奥を見て漠然と思った。とりあえず中に入ろう、と非力ながらも肩を貸して、屋内に入る。彼を玄関先の椅子に座らせてから、すぐさま必要な物を取りに行く。バスタオルと、使っていないルームウェアを手渡せば、彼は礼を言った。彼が着替えをしているうちに、ケトルで湯を沸かす。マグカップにココアの粉を入れ、沸いた湯を注ぐ。熱々だから気を付けてね、と一言添えて、彼にココアを出した。ゆっくり口をつけたのを見届けて、向かいの椅子に座った。温かい、と思わずこぼす彼になぜだか安心した。幼い頃の彼の片鱗を、感じたからかもしれない。お腹、減ってない?そう問えば、はい、と返ってくる。クラムチャウダー、結構好きだったよね。ちょうど材料があるから、それでいいかな?と献立の確認を取れば、二つ返事が返ってきた。慣れたように支度を始める。バターを熱して砂抜き済みのアサリとワインを入れる。蒸し煮をした後、いったん取り出して殻と剥き身に分ける。煮汁は捨てずにとっておく。また鍋にバターをひいて、あらかじめ切っていた野菜ときのこを放り込んで、炒めつつ小麦粉を少しずつくわえていく。先ほどのよけていた煮汁を再び鍋に戻しそのまましばらく煮る。最後に牛乳と剥き身を入れて煮立たせる。その間に、作っていたパンをオープンで焼く。焼きあがったパンを皿に盛り付け、鍋の火を止めた。出来たてのクラムチャウダーをスープカップに注いで、テーブルにパンや飲み物と一緒に並べる。再び向かい合って座り、食べようか、と彼に話しかけた。
『…ありがとうございます。』
『一人も二人も変わらないからね。気にしないでたくさん食べて』
手を合わせて、二人で食べ始める。彼が食す姿を時折見ながら、淡々と食事を進めてゆく。空になった彼と自分のスープカップにおかわり分を注いだり、それについて礼を言われたり、必要最低限のコミニュケーションをとるだけで、二人とも食べることに集中していた。意図してそうしていたのかもしれない。食事が終わって、彼に食器の片付けを手伝ってもらいながら、洗い物を済ませる。また湯を沸かして、食後のコーヒーを作り、テーブルをはさんで再度向かい合う。何から話せば良いのか、分からない。清さんは、変わらず優しいですね、と彼が唐突に切り出した。もっと強く拒否されるかもしれない、と思ってました。声が、少し震えている。貴方は僕の前から居なくなった。あの場所を手放してまで僕を遠ざけて。あの絵だけを残して、一方的に姿を消した。初めて見つけた幸せを、失った気持ちでした。溢れ出したように、彼は気持ちを吐露してゆく。貴方が僕との再会を望んでいなくても、それでも会いたかった。初めて大切だと思えた人だったから。伏せていた眼をこちらに真っ直ぐ向ける。そらせないままに、瞳の中に吸い込まれて。もう、あなたを失いなくない。二度と居なくなったりしないで下さい。切々と、彼の言葉が胸に刺さる。この年になるまで、こんな辺境の地まで。私を追ってきてくれた。
『…私は、君に憎まれることはされても…大切だって告げられることはこの先ないと思っていた。』
…言いたいことはたくさんあるけれど、言葉が上手く出てこないんだ。正直に今の気持ちを語れば、彼は少しほっとしたような顔をした。恵咲くんさえ良ければしばらく、泊まっていかないか?来客用の部屋があるから、寝る場所はある。もしも無理でも、今日だけは泊まっていきなさい。夜の森は危ないからね。ひと息にそう伝えれば、彼は一拍置いて、居ても良いんですか?と聞き返した。もちろんだ、と肯定する。
嬉しさの滲む表情で
『…ありがとうございます』
彼はそう礼を言った。
『来客用の部屋の布団は、悦木が泊まった後に干したっきりだから、もしかしたら埃っぽいかもしれない。ごめんね』
『…悦木さん、元気ですか?』
『ああ、元気だよ。今は海外にいるんだ』
パートナーの仕事先が
国外なんだそうだ。
『悦木さんは恋人がいらっしゃったんですね』
『うん。きっと添い遂げるんじゃないかって僕は思ってる』
相手の人にも何度か会ったことがあるよ。とても感じの良い人で、悦木を大切にしているんだって見て取れた。…大切な親友が幸せを謳歌しているのが嬉しいんだ。清さんは…いないんですか。彼が静かに問う。長い沈黙の後、僕は変わらずいないよ。と事実だけを告げる。彼がどんな表情かを、あえて見なかった。否、見れなかった。いまだうちにこもる、心惹かれた気持ちを暴かれてしまう確証があったから。あの奥まで見透かすような瞳に見つめ続けられて、隠し通せる自信がなかったのだ。
『今日はもう、寝ようか。こんな場所まで来たんだ、疲れただろう?ゆっくり休んで』
『…はい。ありがとうございます』
『うん。また、明日』
『……おやすみなさい、清さん』
『あ、言い忘れてたね。二階の奥の部屋が客室だよ…おやすみ、恵咲くん』
『…清さん』
『うん?』
『貴方が貴方のままで…良かった』
『…あの頃より、立派な人間にでもなれてたら良かったんだけれどね』
そうしたら少しは
君に顔を向けることが
出来たかもしれない。
『清さんはすごいよ。だって自分が生み出した作品を、皆に好きだって認めてもらって、生活をしているんだもの。それはすごく立派なことだ』
貴方を情けないなんて思ってことは
一度たりともない。
ああ…君だって。
君だって、あの頃から
変わっていない。
そうやってたやすく
心のいちばん奥の部分に
入ってしまうのだから。
『…ありがとう。』
そう礼を言って
二言三言交わして
お互い寝室に戻った。
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