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第8話
いつもよりも就寝するのが早かったからか、早朝に目が覚めた。怠つかないように、一息に起き上がって、リビングへ降りる。窓を開けて、空気の入れ替えをする。冷蔵庫を開いて、朝食の献立を考える。久々に和食でも良いかもしれない。集落の人にもらった新鮮な鮎が、冷凍庫にある。おすそ分けをしてもらった時、丁寧に美味しい保存の仕方まで教えてくれたのは、集落で数少ない若者だ。力持ちで慈愛のある分け隔てのない好青年で、何かと私に親切にしてくれる。こちらも施されるばかりではなく、何かお礼をしないと。近々デザートパンでも作ろう、そう心に決めた。鮎を自然解凍させながら、お湯を沸かす。まずは一杯、コーヒーを飲んで。それから動き始めようか。朝にうってつけの珈琲豆を選んで、挽く。挽き終わり、タイミング良くお湯が沸いて、流れるようにコーヒーが出来上がった。まごつかないで一日を始められた日は、終わりまでスムーズに動ける。美味しいコーヒーを飲みながら、そうやって長年のジンクスを思い返した。今日は昨日よりちゃんと話せそうだ。空白だった年月に起きた様々なことを、彼に伝えられたらと思う。コーヒーを飲み干し、鮎の具合を確かめる。程よく解凍されて良い感じだ。鮎に軽く塩を振り、余熱で温まったグリルで焼く。味噌汁の具を刻んで、鍋でしばらく煮込む。付け合せにひじきの煮物と漬物を小鉢に盛って、香ばしく焼けた鮎を、グリルから取り出して皿にのせた。最後に味噌を溶いて朝食が完成した。お椀に味噌汁を入れるのは、彼を起こしてからにしよう。二階に上がろうとしたところで、タイミング良く彼が降りてきた。
『…おはよう、清さん』
『うん、おはよう…恵咲くん』
『焼き魚のいい匂い。手、洗ってくるね。洗面借ります』
『左突き当たりにあるから。いちいち断らなくて大丈夫だよ。』
ありがとう、と言って彼は洗面所に向かった。その間に料理を並べていく。出来たての味噌汁をそそいだところで、恵咲くんが戻ってくる。食べようか、とひと声かけて、ふたりで席につく。まるで練習したかのように、手を合わせてから、いただきます、と言うまでが互いにそろった。思わず笑顔になる。今日は自然に話が出来そうだと思った。
『鮎、美味しいです。味噌汁も具沢山で良いですね』
『口に合って良かった。この鮎ね、集落の若手の子からもらったんだよ。すごく親切な子で、冷凍保存の仕方も教えてくれたんだ』
今度、お礼をしようと思っていてね。
『恵咲くんも手伝ってくれると助かるんだけど』
パン作り、一緒にやってくれる?
『…良いですよ、足でまといにならないといいけど』
『ふふっ大丈夫だよ。恵咲くん、手先器用じゃないか』
よくお菓子作りをしたのを
覚えているよ。
『ホットケーキにクッキー、クレープも作りましたね。すごく…楽しかった』
『うん、とても楽しかったね。…恵咲くんさえよければ、またそうしていきたいと思う』
彼は少し眼を見開いてから
嬉しさの滲む顔をして
『…はい』
と答えた。
昔話を交えながら、朝食をゆっくり食べる。これほどまでに心穏やかに、笑い合いながらの食事は久方ぶりだった。時間を忘れそうなほどたくさんの話をした。食事を終えると、これくらいさせて下さい、と食器を洗うのを彼が引き受けてくれた。事も無げに家事をこなしてくれる彼の姿を見る。随分と背が高くなって凛々しくなったと思う。彼はどうやって此処まで来たのだろう。生活などは大丈夫なんだろうか。…それは追々聞いていくとしよう。彼にも彼の考えがあると思うし。彼から視線をそらして間もなく、清さん、と呼びかけられた。
『…食器を洗い終わったんだね、ありがとう。』
『はい。コーヒー豆ってどこにありますか』
『ああ…上の戸棚にあるよ。僕が作ろうか?』
『いや、俺がやりますよ。仕事で作っていたことがあるんです』
成り行きで人手の足りない喫茶店で
ウエーターをしていたんですよ。
『…少しの間でしたが、美味しいコーヒーの淹れ方は、素人には充分過ぎるほど学べました。』
彼の人生が垣間見える。
それを自ら何気なく話してくれた事を
とても嬉しく思った。
『…私は今から贅沢が出来るんだね』
人から淹れてもらった
コーヒーを飲むのは久々だ。
『そんなに喜んでもらえるなら…頻繁に作りますよ』
手慣れた動作で
お湯を沸かし、豆を挽いて
お湯を注いでいく。
『…魔法みたいだ』
一連の流れを見ていて
自然にそう口から出る。
それに対して彼は
優しい顔をする。
『出来ましたよ、清さん。熱いから気をつけて』
彼からマグカップを受け取り、再び席についてゆっくりといただく。美味しい、と吐息のように口からこぼれ落ちた。その反応に対して、良かった、と彼は眼を細める。じゅうにぶんにブレークタイムを楽しんだ後、話の話題に出てきたおすすめの本を手渡し、仕事をすると告げて作業部屋に戻った。あらかじめ決めていた工程表にそって、作業を始める。三時間ほど仕事をやりこなした後、再びリビングへ降りる。遅めの昼飯を作らなければ。ごめんね、恵咲くん、と謝りながら階段を降りて、驚いた。テーブルに料理が並んでいる。
『…勝手にキッチン借りました。ごめんね、清さん』
『全然大丈夫だよ。…すごいね、ありがとう。』
半熟卵のオムライスとコンソメスープ。まるでお店で出てくるものようだ。手慣れたように綺麗に、ケチャップがかかっている。席に座って手を合わせ、いただく。チキンライスと卵とケチャップの比率が絶妙だ。美味しい。また食べたいなあ、とつぶやくように言えば、何度でも作りますよ、と返される。仕事は進みましたか、と彼が何気なく聞く。工程表の通りに進んだよ、と返答した。今回の仕事は大きくてね、中々終わりが見えないんだけど…やり甲斐があって楽しいんだ。と続けて、新しい試みをしていることを話す。
『…清さんの絵が、また見たいです』
食べる手が、一瞬止まる。
『…、…いいよ。食事が終わったら一緒に作業部屋に行こうか』
彼に向けた、あの絵。
それが作業部屋には飾ってある。
『…清さんがのこしてくれたあの絵、大切に持っています』
俺と清さんを繋いでくれた絵だから。
『ありがとう。』
…あの時の約束、果たせそうだよ。
君がこうして此処に
来てくれたから。
『……描いてくれたんですね』
『…受け取ってくれるなら、また君に託したいと思ってる』
『良いんですか…貴方の作品なのに』
『良いんだ。君に向けて作ったものだから』
そのほうがいい。否、それが良いんだ。
『とても、楽しみです。昼食…冷めるまえに食べてしまいましょう』
『ああ、そうだね。』
それから二言、三言交わしたきりで、静かに昼食を食べ終えた。後片付けをして、ふたりで二階に上がる。作業部屋のドアを開けるのを、少しだけ躊躇した。意を決して、すっかり握り慣れたドアノブをひねる。真正面に飾ってある例の絵を見て、彼は息を呑んで、綺麗だ、と言った。部屋に入ると、彼はそのまま額縁の絵を見つめ続けた。私は作業椅子に腰をかけながら、彼が私に話しかけてくれるのを待った。そういえば出会った当初も、こうやって彼は熱心に絵を見てくれていた。あの頃の面影が少し残った顔で、鑑賞する彼を前に気持ちが溢れ出す。私は…彼の人となりに惚れたのだ。置き去りにした私にその感情を伝える資格はないけれど、それでも心の内で素直になることは必要だと思った。ひそかに溢れて止まぬ愛情を、ただなだらかにどこまでも川のように胸の内で流し続けた。
その日の夜、恵咲くんはゆくゆくは此処で暮らしたい、と相談してきた。もちろん自分で借家を借りて、仕事も見つけて、移住したいのだと告げられた。それが叶うまで、この家でやっかいになっても良いか、とも伺いを立てられる。反対する理由も、気持ちもなかった。私は承諾した。
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