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4.幸せな気持ち(2)
ダイニングキッチンの片づけが終わると、泰徳が澄人に向きなおった。
「この部屋に決めた理由は何だ?」
「泰徳様のお住まいへの距離、オートロックと浴室乾燥機能があること、2DKの間取り、リフォーム済みだったことです」
「どれを最も優先した?」
「浴室乾燥です」
なるほどと言いながら、泰徳は書斎に入った。手前と正面の壁は天井まで扉のついた白い本棚で、右手のクローゼットの中にも、本とわずかなCDやDVDなどを収納している。左手奥になる外廊下を向いた窓際に、ダークブラウンの広い木製の机と同じ素材の背の低めな本棚を置いてある。机の上にはノートパソコンと二十七インチモニターがある。窓に掛けたダイニングキッチンと同じ緑のカーテンは週末に風を通すときにしか開けない。窓の外の人影で気が散るからだ。
「この机と本棚は初等部に入学したとき、紅林 が用意した物じゃないか」
泰徳の指摘に澄人は頷いた。シンプルな机も本棚も、澄人が鳳集学園初等部に合格した祝いに与えられた物だ。机は広く大人用で、高さの調節できる椅子がセットだった。椅子はさすがに体型の変化に合わせて交換したが、二十年間、毎朝雑巾で拭いてきた天板は塗装が剥げかけ、木目が表に出ている。本棚も同様だ。
泰徳がため息をついた。
「よくこんな机で大学の課題をこなしていたな」
「机のサイズに合わせた板を購入し、その上で作業しました」
つい声が小さくなる。
「お前が物を大切にしてきたのはよくわかるが、それなら天板を平らに削って塗り直ししてやった方がいいんじゃないか? それに両側の壁に本棚では地震の時に倒れて本が散乱するし、ドアを塞ぐぞ」
澄人は白い本棚の扉に手を触れた。
「これらは天井に突っ張るタイプなので、倒れにくくなっています。上段の扉には耐震ラッチが付いているものを選びました」
「色が白なのは壁の色に合わせたのか?」
「はい、他の色では圧迫感があると思いましたので」
確かに、と泰徳が頷いた。それからダイニングキッチンへ戻った。
「これはいつもここにあるのか?」
泰徳が示したのは食事の時にテーブル脇に置いたカラーボックスだ。
「いえ、いつもは寝室のクローゼットの中で使っています。今夜はテーブルの広さが足りないと思ったので出してきました」
「これも随分年季が入った代物 のようだが」
拭いても落ちなかった汚れを泰徳が撫でている。その表情は痛みを感じているかのように曇っている。
「まだ使う気なら、色を塗ってやってもよかろう」
正直なところ、澄人はこのカラーボックスに愛着があるわけではない。中学の時に本棚が足りなくなって一時しのぎに買ってもらったものだ。今は見えるところに置いていないし、使うのに不便はない。今夜の食事が突発的な事件で仕方なく出してきた。だが泰徳の価格や使用場所はともかく長く付きあうものには手を掛けるべきとの考えは、生活を大切にしようという考えの表れかもしれない。
最後に寝室に入った。左壁面がクローゼット。家具はベッドとナイトテーブル代わりの二段のカラーボックスだけである。そのベッドも書斎の机と本棚と同じく紅林家から与えられ、初等部から使っている。マットレスだけは一度交換した。寝具のカバーは白。カラーボックスも白である。右奥がバルコニーで今はここも緑のカーテンを閉めてある。そのカーテンを泰徳が掴んだ。
「家具は二十年前の物をずっと使い続けて、それ以外は白。カーテンは全室緑」
泰徳が澄人を振り返った。
「お前の好きな色は青じゃなかったか?」
澄人は上目に泰徳を見る。眉尻が下がっているだろう。
「はい。そのとおりです」
「なぜカーテンを緑にした?」
「安かった、ので……」
「ナイトテーブルがこの棚なのも価格か?」
頷くしかない。
「紅林家は俺の影としてのお前に相応の対価を支払っている。給与と併せればそれなりの金額のはずだ。金銭的に青いカーテンを選べなかったわけではあるまい? むしろ生活を楽しむという意味では好きな色を取りいれた方が望ましいと、俺は思う」
窓辺から戻ってきた泰徳が寝室を見渡した。
「ここまで何もないと、寒々しささえ感じるな。お前の人柄がまったく活かされていない」
澄人は唾液を飲みくだした。
「ここはあくまでも仮の住まいと思っていますので」
澄人の顎に泰徳の指先が触れた。上向かされて目を覗きこまれる。
「寂しいことを言うな」
澄人の体がかっと熱くなった。視線を逸らさずにはいられない。なぜ泰徳はこんなことを言うのだ。理解が追いつかず、澄人は混乱しながら視線を戻す。
「でも、でもキッチンだけは充実させております」
言い訳じみた言葉に泰徳が頷いた。
「では、そんなお前に課題だ」
顎から指が離れ、泰徳が動いた。澄人はその姿を目で追う。ベッドの足元側の空間に立った泰徳がベッド正面の白い壁に手で触れた。
「この空間をお前が幸せになるもので埋めて、俺に見せろ」
幸せになるものと澄人は舌の上で転がし、首を傾げてしまった。思いつくものがない。そんな澄人の目を泰徳が覗きこんでくる。
「期限は四週間後の土曜日。いいな?」
泰徳の念押しに澄人は頷くしかなかった。
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