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4.幸せな気持ち(3)

 泰徳をマンションに送った帰り道から、澄人は悩んでいた。自分が幸せになるものとはいったい何なのか?  今まで二十六年生きてきた中で、幸せとか不幸せとか考える間もなく働いてきた。泰徳に仕えること――泰徳を危険な目に遭わせないこと、不自由を感じさせないことを常に考えて行動していた。そもそも白井澄人は紅林泰徳のために存在している。護衛としても世話係としても、泰徳の安全と快適な生活が、影である澄人の喜びなのだ。  自室のベッドに腰を掛け、白い壁をにらんだ。この部屋は澄人にとってやはり仮住まいだ。泰徳の生活の場が移れば捨て去る空間。そこを幸せで満たすことは考えれば考えるほど難しい。  中島課長補佐なら、飼い猫たちのためのおもちゃなどを用意するだろう。では出題した泰徳なら何を飾るだろうか。すぐに思いついて澄人はふっと笑ってしまった。  泰徳様なら、ご自身で設計された図やその建築模型だな。  泰徳の本当の望みは現場で働く建築士だ。小学生の時からその未来を見据えて造形教室に通い、デッサン力と図面からの立体物制作能力を鍛えてきた。新入社員研修後の配属先が商品企画部だとわかったとき、泰徳にして珍しいことに激昂した。泰徳が現場を経験できる設計事務所ではなく、KUREBAYASHIの入社試験を受けたのは、社長である父雅徳と泰徳の間に、最初の配属先は現場という密約があったのを澄人は知っていた。  父への直談判で、泰徳は入社一年目で二級建築士試験に合格したら異動を考えるとの言をもぎ取った。その際は澄人も一緒にという条件で。しかし泰徳はドレッシーノの成功で企画の才を認められてしまい、この話はうやむやになってしまった。大学で一級建築士試験に必要な課程はすべて取得しているが、実務経験を積める環境ではないために、受験すら保留している状況だ。  その鬱屈を、泰徳は自宅マンションでの家屋やビルの設計、その模型作りで紛らわしている。製図机やCADソフトに向かって図面を引く泰徳の表情はいつも生き生きして真剣だ。模型を作っているときなど、まるで子どものようにそこに住む人々の物語を澄人に聞かせてくれる。  あ、と澄人は思った。  澄人は、泰徳が自分に作ろうとしている家について語るときや、完成した模型を愛情込めた眼差しで見つめるときに、この上ない興奮と喜びを感じる。他の誰にも見せない少年のような泰徳の顔を見られるのが、たまらなくうれしい。  澄人の幸せは泰徳とともに在る。泰徳とは主従関係でありながら、ずっと机を並べてきた友人でもあった。いつも泰徳は自分の楽しみや夢を隠さず話してくれた。そんな泰徳と一緒に成長してきたこと、生活の一部であることこそが澄人の幸せだった。自らの適性で建築学科を選んだわけではない澄人にとって、泰徳の協力と笑顔が心の支えだった。それだけではない。うまそうに料理を食べてくれる顔や、家事をする澄人に礼を言ってくれるときの優しい笑みは澄人の宝物だ。  澄人は書斎へ行って机に向かい、ノートパソコンとモニターをケーブルで接続すると、パソコンの電源を入れた。引き出しからノートを取り出して広げる。そこには先日泰徳が語っていた理想の家の条件が書き留められている。  泰徳様の笑顔が見たい。笑顔を集めよう。  ノートを見ながらこれから作りあげていくものの構想を練った。  翌朝、いつものように泰徳の部屋を訪れた。まだ泰徳は眠っている。各部屋のカーテンを開けてまわりながら、ホビールームに入った。机の上にはマンションの間取り図が広げられていた。部屋の中央の作業台には作りかけの模型がある。それを覗きこんで、澄人は噴いた。そのマンション工事現場には、大学のとき女子学生がプレゼントしてくれた、ウサギやクマの家族の人形たちがちゃっかり入りこんでいる。 「ヘルメットがないのが残念だ」  はっと入り口を見ると、パジャマ姿の泰徳が笑っていた。 「おはようございます。今回も随分と若い作業員がいますね」 「おはよう、澄人。だいぶ形になったので、置いてみた」  器用な泰徳は小さな家具も自作する。学生時代の住宅模型は動物たちのためのドールハウスのようだった。女子学生に勧められてその写真をSNSに投稿するようになり、毎回かなりの反響を得ていた。社会人になった今はSNSへの投稿をやめている。だから茶目っ気あふれるこれを見られるのは澄人一人だけだ。  朝食を泰徳が食べている間に家事をする。世話係に休日はない。昼食用に作ってきたサンドイッチは冷蔵庫にしまう。今夜は紅林家の屋敷に帰り、そちらで夕食を摂るということなので、そのぶん気が軽い。 「俺が出した課題はどうだ?」  食後のお茶を出したところで泰徳に問われた。澄人は笑みを返す。 「方向性は決まりました」  泰徳の目が丸くなった。 「もっと悩むかと思った」 「わたくしもそう思っていました。ですが、わたくしの世界はとても小さく、ささやかだということに気がつきましたので」  泰徳が茶碗を茶托に置いた。 「幸せの大きさは人それぞれだからな。欲ばる必要はない。四週間後を楽しみにしているぞ」  澄人は頷いて家事に戻った。

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