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8.理想の未来へ(2)

 エントランス前のインターフォンで泰徳の部屋を呼びだす。なかなか応答がない。諦めきれずにもう一度部屋番号と呼び出しボタンを押し、真っ直ぐにカメラを見つめる。 『何の用だ』  泰徳の声だった。 「おはようございます。どうしても泰徳様にお目にかけたいものがあって参りました。どうか、どうかお部屋へ入れてくださいっ」  カメラに頭を下げる。泰徳がため息をついたのがわかった。エントランスフロアへの自動ドアが開く。 「ありがとうございますっ」  澄人はカメラにもう一度頭を下げ、約三週間ぶりに泰徳のマンションに足を踏み入れた。 「白井さん、お久しぶりです」  フロントからコンシェルジュが声を掛けてきた。それに対して丁寧に挨拶を返し、中へ進んだ。エレベーターホールでの二回のロック解除を経て、泰徳の部屋の前についた。  インターフォンのボタンを押そうとして、澄人は手が震えていることに気がついた。口の中も乾いている。水のペットボトルを用意しておけばよかったと悔やんだが仕方がない。深く息を吸い、細く長く息を吐いた。震えは止まった。これからやるのはプレゼンテーションだ、自分の理想の家と澄人自身の。  澄人はボタンを押した。  玄関ドアはすぐに開いた。澄人は泰徳のようすに息を呑んだ。泰徳はパジャマ姿で髪も乱れており、髭も剃っていない。頭を深く下げた。 「まだおやすみでしたか。申し訳ございません」 「入れ」  泰徳がスペースを作ってくれた。シューズクロークにはまだ澄人用のスリッパがあった。それに履きかえて靴をしまう。 「シャワーを浴びてくる。リビングに居ろ」  泰徳はバスルームへ行ってしまった。  リビングの入り口で澄人は足を止めた。途中まで開けられたカーテンに、ソファに脱ぎ捨てられたスーツの上着とワイシャツ、床にスラックスと靴下、ネクタイ。寝室を覗くとやはりワイシャツや靴下が投げだされている。キッチンもグラスや食器が流しや調理台に置かれたままだ。泰徳は澄人に代わる世話係を手配していないのか。  持ってきた荷物を置くと体が自然に動き出した。まずカーテンを開けてまわる。スーツの上下はどちらも皺になっているからクリーニングに出した方がいい。ワイシャツもクリーニングだ。靴下は洗濯機で洗うから洗面所に持っていった。替えの下着が用意されていない。澄人は寝室のウォーキングクローゼットに入り引き出しを開けた。替えが二枚しかない。今日洗濯をしなくては泰徳が困るだろう。  食器を洗い、ゴミをまとめたところで、泰徳が洗面所から髪を拭きながら出てきた。室内を見て表情が硬くなっている。澄人は唇を引き結んだ。よけいなことをするなと言われるのではないか。泰徳の顔が澄人に向いた。その目に怒りはない。 「手を煩わせた……ありがとう」  澄人の中で喜びが爆ぜた。思わず浮かぶ笑みを隠すため、頭を下げる。 「恐れ入ります。失礼ながらハウスキーパーや世話係の手配はお済みではないのですか」 「週に一度はハウスキーパーを入れるようにしてはある」  顔を上げて(うかが)った泰徳の表情には憂いがあった。 「慣れればもう少しは自分でできる」  澄人は胸がきゅうっと絞られた気がした。使用人がいて当たり前の生活を送ってきた泰徳に突然一人暮らしができるはずがない。その難しいことをやろうとして悪戦苦闘している姿を想像すると切なくなる。一言命じてくれれば、澄人は喜んで泰徳の生活を支えるのに。 「それで、今日は何の用だ?」  シャツにジーンズを着た泰徳がソファに座った。 「準備をいたしますので、それまでこちらを召しあがってお待ちください」  澄人はダイニングテーブルにサンドイッチとコーヒーを出した。泰徳が立ちあがってきた。 「これはお前が作ったのか」  泰徳の問いにどきりとする。断られるだろうか? 「はい、さようでございます」 「もらうとしよう」  椅子に座った泰徳が素直に手を伸ばしてくれた。ほっと澄人は息をこぼした。泰徳に笑顔はないが、澄人のすることを拒絶しないでくれる。それだけで心に力が湧いてきた。  リビングのテーブルにノートパソコンをセッティングする。図面ケースから間取り図などを出し、手に取りやすいよう並べる。  キッチンで水音がしている。慌てて向かうと泰徳が皿とカップを洗っていた。 「わたくしがやりますのに」  代わろうとしたが泰徳は首を横に振った。 「お前にいろいろ片づけさせてしまった。このくらいは自分でやる」  澄人は泰徳がすすいだ食器を麻布巾で拭くことにした。水を止めた泰徳はやや機嫌が悪そうだ。 「結局お前の手を借りた」 「このようなこと、お貸ししたうちには入りません。泰徳様がご自分で洗われたのです」  澄人が離れていた三週間で泰徳の心境に何か変化があったのは間違いない。プライドを傷つけないよう気をつけねばならない。

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