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8.理想の未来へ(9)

 イタリアンの店に着くと個室に案内された。ワインとアミューズが届き、二人になると乾杯をした。 「両親には俺が同性愛者だということは伝えてある」  澄人は白ワインにむせた。泰徳が肩を竦める。 「大学を出てからの俺の行動を調べて、嫌でも現実と向きあうことになったのだろう。入社三年目で父に呼びだされた」  泰徳に見合い話が来なくなったのは、その頃ではなかったか。泰徳がピクルスを口に運ぶ。 「強引にプロの女を紹介されたが勃たなくてな、それでやっと諦めてくれた。ただ社長を継ぐことは約束させられた。それから実子を望めないのなら、自分の手で才能ある者を後継者として育てろと命じられた」  知らなかった。泰徳が父である雅徳とそのような約束をしていたとは。カルパッチョをフォークに刺す。 「好きなのがお前だということも、実はそのとき既に伝えた」  息を呑んだ弾みで鯛が取り皿に落ちた。 「だから俺がお前を白井に返すと言ったとき、振られたと思われたようだ。今夜、父とお前の父親には、再びお前を側に置くことを伝える。これだけで父には俺たちの関係がばれるが、構うまい?」  頬がどうしようもなく熱い。泰徳が首を傾げた。 「嫌か?」  澄人は急いで首を振った。 「泰徳様におまか――」 「泰徳さん、だろう?」  覗きこまれて言い直す。 「泰徳さんにお任せします」 「お前の両親も説得する」  澄人は鯛をフォークに刺しなおした。 「わが家には兄弟がいますから、わたくし――俺は泰徳さんに付いていきます」  泰徳がにっこりとした。 「それでお前は、いつ俺の部屋に越してくる?」  澄人は鯛を口に入れそこねた。泰徳が続ける。 「お前の親を説得するために実績を作りたい」  予想していなかった申し出に返答ができない。泰徳の表情が真剣になった。 「一緒に暮らそう、澄人」  胸が熱くなった。悲壮な覚悟で迎えた今日はうれしい日に変わり、身も心も喜びに満たされて幸せだった。なのに、まだその先があった。ぐっと奥歯を噛みしめて目の奥に湧く熱さを堪えてから、澄人は微笑んだ。 「置いてください、お側に」 「文字どおり側に置くぞ、お前を」  泰徳の手が伸ばされ、澄人はその手に手を重ねる。 「ありがとうございます」  食事の後、澄人の部屋へ着替えを取りに行き、二人はまた泰徳の部屋へ帰った。  月曜日、中島と会議室で打ち合わせをした。 「うん、この企画はいいぞ」  中島の声は朗らかだった。 「お前に紹介した建築士も営業もお前の熱心さに感心していた。それに確かに自宅に仕事用の空間をという声を聞くことが増えてきたそうだから社として取り組むのはありがたいとさ。課長にこのまま回す」 「ありがとうございます」  ところで、と中島がにやにやしながら頬杖をついた。 「無事、泰徳と仲直りできたようで結構けっこう」 「は?」  わからずに反問した澄人に中島が答える。 「あいつが何を思って突然お前を遠ざけようとしたのかは知らん。だが、あいつにお前は必要だし、お前にもあいつが必要だと思っていた」 「何のお話、ですか?」 「泰徳がお前の主で、お前はずっと影だったろう?」  澄人は絶句した。頭の中に疑問ばかりが湧きあがる。 「なぜ私が、泰徳とお前の関係、紅林家と白井家の関係を知っているのかわからん、という顔だな」  中島の笑みは深まる。澄人は大きく頷いた。 「私が泰徳様の腰巾着なのは社内でも知られた話ですが、家同士のこと、主と影の関係を知っているのは普通ではありえません」  簡単なことだと中島が身を乗り出した。 「泰徳と私は再従姉弟(はとこ)だ。私の祖母が泰徳の祖父の姉なんだよ」  すとんと胸に何かが落ちた。中島が現場で非常に優秀な建築士であり管理職候補であったことは、かつての同僚たちが認めるところで、彼らは揃って本社に取られたと嘆いていた。その貴重な戦力である中島がこの課に異動してきたのは、社長令息という一般社員には扱いにくい泰徳を年長の親族という立場を使い、課長として育てる意味があったのだ。  中島は澄人を見てまたにやりとした。 「ちなみに私の実家は病院でな、父は外科医だ。十六年前お前の手術を執刀したんだぞ」 「えっ?」  手で左の脇腹を押さえる。中島が人差し指を立てた。 「お前が入院している間、泰徳が見舞いと称して押しかけてきて大変だったそうだ。影を使い捨てにするのが当然の紅林の跡継ぎが、役目を終えたお前を絶対に放さないと病院で暴れたのは今でも語り草だ。紅林家の中でも揉めただろうな」  澄人の胸がきゅうっと締めつけられた。あの事件を限りに澄人は泰徳の前を去るはずだったのか。それを泰徳が全力で阻止してくれたのだ。  中島が静かに言葉を紡ぐ。 「影に復帰したお前はずっと泰徳の側で泰徳とともに学び、泰徳と同レベルでこの会社に入社し、主任になった。半端な努力ではなかっただろう。それは泰徳への恋心が原動力か」 「そのとおりです」 「正直だなあ」  うなずく澄人に中島が苦笑した。 「まあ、今回の企画書についてはまったく問題ない。短期間でよくここまで成長したと思う」  ぐっと姿勢を正し、中島をしっかり見かえす。 「ありがとうございます。あのときの課長補佐の言葉で目が覚めて、仕事に向きあう覚悟ができました」 「よろしい。これからは泰徳を公私ともに支えてやってくれ。おめでとう」  中島がやさしい微笑みに思考が止まる。 「ありがとう、ございます」  頬が熱くなり掠れた声が出た。  中島が立ちあがり、澄人もそれに続く。ドア前で中島が足を止めて振りかえった。 「泰徳と私の関係は他の社員には秘密だ。いいな?」  はい、と澄人はうなずいた。 「よろしい」  にっと笑った中島がドアを開けた。  その日の夕方、澄人は泰徳に会議室に呼ばれた。 「中島課長補佐から報告を受けた。自宅にワークスペースを設けるという商品の企画書を当課として部長に提出する」  澄人は立ちあがって頭を下げた。 「ありがとうございます」 「よく頑張った。このために現場も回ったのだろう?」 「はい」  泰徳も立ちあがり、澄人の側へ来た。するっと胸に抱きしめられていた。 「お前を信じてよかった」  泰徳の囁きに目が潤みそうになる。 「泣くにはまだ早いぞ。きちんと商品化できるよう社長まで持っていかないとな」 「はいっ」  澄人は大きく頷いた。

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