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第8話

***  瞼の裏が眩しい。  目を開けるとカーテンの隙間から差し込む朝日が、まともに顔に当たっていた。枕元の時計を見る。まだ7時だ。日曜なのでいつもなら9時過ぎまで寝ているところだけれど、なんだか気持ちが昂ぶって早く目覚めてしまったらしい。  上体を起こすとなんとなく頭が重く、はっきりしない感じがした。『あの夜』の夢を見た翌朝は、いつもそうだ。あれからもう5年、ここしばらく見なかったからこのまま忘れられるかもと思っていたのに、昨夜に限って……一体どうしたんだろう。    まさか、隣の部屋にリックが寝ているから? 彼等と同じ外国人というだけで、僕は無意識にリックを怖いと思っている、とか?  そんなわけない、とあわてて打ち消し首を振った。そんなこと考えたくもないけれど、もしもそうだったらと思うと自己嫌悪で凹みそうになる。  リックは僕を襲った連中とは全然違う。優しくて、温かくて、こんないじけた変わり者の僕でもいいと言ってくれた人じゃないか。  右手を見た。昨夜握手したときの、彼の手のぬくもりを思い出したのだ。同じぬくもりを、夢の中でも感じた気がした。  助けを呼ぶ僕に答えて、誰かが手を握って『大丈夫』と言ってくれていた。『これは夢だから、大丈夫』と、優しい声で落ち着かせてくれた。ありありと蘇るぬくもりと、頬を撫でる感触。ほのかに香ったクールなコロン。包まれていた手から次第に全身にぬくもりが伝わり、不安が徐々に消えて行く感覚が思い出されて、僕の胸は朝からドキドキと高鳴ってしまう。  あれはもしかしたら、リックだったのではないか。うなされている僕の気配に気づいて、脇につきそってくれていたんじゃないのか。  そんなわけない、と、都合のいい思い付きを重い頭を振って否定する。否定しながら、どこかで期待している。もしもそうだったらどんなに嬉しいだろうなんて、なんだか図々しいことを思ってる。  同時に、もし万が一それがリックだったとしたら、僕が口走ったうわ言から夢の中身を知られなかっただろうかと、急に不安になってきた。もちろん彼のことだから、何か察したとしても無作法に聞いてくるような無神経なことはしないだろうけど。    とにかく、悩んでも仕方ない。夢のことは頭から追い出して、今日一日の楽しい予定だけを考えよう。  僕は背伸びをしベッドから出ると、手早く着替えを済ませる。時間はまだ早かったけれど、どうせもう眠れそうもなかった。それに今朝は元々早起きして、リックのために朝食を作ろうと決めていた。  どこのホストファミリーだって、一家の主婦が異国のゲストのために心のこもった手料理をふるまうに違いない。当然、僕だって頑張りたい。初日からコンビニのパンとおにぎりで済ませるなんて、絶対嫌だ。  足音を忍ばせ寝室からキッチンへと出る。半分開いた戸の隙間から、ソファをベッド代わりにして眠っているリックの横顔が見えた。僕のベッドを使ってと言ったのに固辞されて仕方なくそこに寝てもらったのだけれど、寝心地はどうかと気になっていた。  どうやら大丈夫そうだ。リックはぐっすり眠っている。整いすぎた横顔は、目を閉じて動かないでいるとまるで彫像みたいだ。起きているときは瞳を合わせられずにろくに見られなかった美貌を、しばしこっそりと堪能してしまう。  いつまで見ていても見飽きないんじゃきりがない。僕は気持ちを切り替え、よし、と拳を握って、まずは冷蔵庫を開けた。ほとんどスカスカな中を見た途端、茫然と立ちすくんだ。使えそうなのは卵が3つと、隣の奥さんの韓国旅行土産のキムチくらい。後はミネラルウォーターやコーラ、摘まみのチーズなどといった食材ではないものばかりだ。    オトメン系のくせに、僕は料理が下手だ。多分料理の才能が全部裁縫の方に行ってしまったのだと思う。縫い物なら小技の効いたヒラヒラフリルのワンピースなんかもちゃっちゃと縫えるのだけれど、料理のセンスは全くゼロ。たまにトライしても、果てしなく個性的な味になってしまう。個性は大事ですよ、なんて言ってくれたリックだって、まずい食事はさすがにノーサンキューに違いない。  白いご飯にアジの干物、温泉卵とほうれん草のおひたしに豆腐の味噌汁くらいならなんとかなるかな、と思っていたけれど、材料がないのでは仕方ない。今朝のメニューは急きょ、国籍不明のキムチ雑炊に変更だ。    気合を入れ直し新作料理に挑みかかるけれど、料理の道はもてなしの心と根性さえあればなんとかなるという、甘いものではなかった。  リゾットどころかお粥だって成功したことのない僕には、雑炊の微妙な水加減と火加減のハードルが高すぎたらしい。鍋の中はちょっと目を放した隙にすぐにグツグツと煮立ってきて、米粒はパンパンに膨れ上がってしまう。一からやり直そうにも、米の買い置きがない。こうなったらキムチをもっと入れて水気を飛ばそうと、最終手段でドバッと多めに投入すると、急にぶくぶくとものすごい勢いで中身が吹き上がってきてパニックを起こす。  予測不能なアクシデントにはとことん弱い方だ。融通の利かない性格で応用力もない。ひたすらおろおろするばかりの僕の背後から伸ばされた手が、落ち着いてガスの火を止めてくれ、やっと我に返った。 「あっ、リ、リック……っ、お、おはよう」 「おはよう、シン」  かろうじて挨拶はしたものの、きっと顔は真っ青で泣きそうになってしまっているに違いない。リックは困り顔で苦笑すると軽く肩をすくめた。 「いい匂いに思わず目が覚めてしまいましたよ。朝ごはんですか?」  鍋の中には正体不明の犬の餌並みの代物。一目で失敗作だとわかるのに、リックはまるでそれが極上のオートミールでもあるかのようにわくわくと覗き込む。 「や、これっ、違うんだ! ちょっとあの……熱っ!」  しどろもどろになりながら、隠そうと伸ばした手が鍋に触れてしまった。

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