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第9話

「シン!」  リックにいきなり手首を掴まれ、僕は一瞬息が止まりそうになる。熱した鍋の熱さより、掴まれた手首の方がよっぽど熱い。リックは硬直している僕の手を引っ張って水道の蛇口につけた。勢いよく流れる水の冷たさが、頬の熱さまで覚ましていってくれるみたいだ。 「大丈夫ですか? ひりひりしない?」 「う、うん、ごめ……ありがとう」  見上げると深い瞳が安心したように細められた。ホッとしたのもつかのま、シンクに左手をつき右手を水道の下に差し出している僕を、リックが背後から抱くような体勢になっているのに気づきあわてる。背中に彼の温度を感じ、一気に体が熱くなる。それが例のトラウマからくる恐怖心とは真逆のやけに甘やかな感覚だったので、僕はさらに戸惑ってしまった。 「も、もう大丈夫だから!」  どう見ても不自然な勢いで水道を止め、その腕から逃れる。リックは変に思った様子もなく、取っていた僕の手を確認して頷いた。 「OK、赤くなってはいませんね。痛みますか?」 「い、痛くないよ」 「うん、大丈夫ですね」  その『大丈夫』という響きにも聞き覚えがあった。昨夜の悪夢の中で囁いてくれたあの声の主は、やっぱりリックだった気がする。  意識すると急にいたたまれなくなってきて、僕は思わず俯いてしまう。そんなこちらの狼狽には気づかないふうで、リックは、 「じゃ、さっそく朝食にしましょう」  と嬉しそうな声を出した。 「えっ? ちょ、リック、これはダメだよ!」 「どうして? シンが私のために作ってくれたのでしょう? わざわざ早起きしてね」  軽くウィンクされ、頬がまた熱くなる。どうしてこう彼には、何もかも見透かされてしまうんだろう。それもみっともないところばかり見られて、決まらないにもほどがある。 「そう、思ったんだけど、し、失敗しちゃって……。僕、縫い物はわりと自信あるけど、料理ダメだから……。ちょっと、リックっ」  僕のいじけた言い訳を聞き流しながら、リックは仕上げのかき卵を構わず鍋の中に流し込んだ。十分煮立っている雑炊まがいの上で卵はほどよい加減に固まり、内側の惨状をうまく隠してくれる。満足そうに頷いたリックは勝手に食器戸棚を開け皿に手早く完成品をよそってくれる。その手際のよさを、僕はひたすらポカンとみつめるだけだ。 「はい、温かいうちにいただきましょう」  僕がボーッとしている間に皿はテーブルの上にセッティングされ、リックは笑顔で手招いた。 「えっ、僕も食べるの?」 「もちろんですよ。朝ごはんはファミリー全員で食べるものです」  当節家族揃って朝ごはんなんて家庭の方が少ないと思うけれど、『ファミリー』の一言が妙に温かく感じられて、僕はおとなしくリックの向かい側に座った。  誰かと一緒に朝食を囲むなんて、一体何年ぶりだろう。  地元の名士の父さんと、近所でも評判の美人の母さん。優秀でしっかりした姉さん達。絵に描いたような完璧な家族の中で、内にこもりがちで陰気な僕は浮いた存在だった。家族と僕を隔てていた壁が決定的になってしまったのは、高校生のときだった。みんなの留守にクリーニング屋さんが届けてくれた姉さんのワンピースを、こっそり着て鏡に映しているところを、その日に限って早く帰宅した父さんにみつかったのだ。僕は怒り狂った父さんに殴られて家から放り出され、警察に保護されるまで3日間をネットカフェで泣いて過ごした。  それからはみんなの僕を見る目が変わった。ちょっと変わり者、から、家族とは認めたくない気味の悪い異質なものへ。  以降僕は家族団欒の輪から弾かれ、自分の部屋で一人食事を取るようになった。  家に居場所を失くし遠く関東の大学へ進学して、その地で公務員として就職することが決まると、みんな大喜びしてくれた。いらない家族は、目の前から消えてもらった方がいいに決まっている。  頼る人もいない場所で一人で生きて行かなければいけないのは不安だったけれど、自分がいなくなることでみんなが笑って暮らせるのならそうしたかった。そのくらいしか、僕には家族に返せるものがなかったのだ。いつでも戻っておいで、と誰かが言ってくれることをほんのちょっとだけ期待したけれど、しょせん望んでも叶わない夢だった。    一人暮らしを始めて、もうすっかり孤独な食卓にも慣れてしまった。でもたまに、本当にごくたまに、誰かが向かい側に座っていてくれればいいのに、と思うことがあった。誰かと楽しく会話しながらする食事は、どんな味がするのだろう。きっと同じ料理でも、一人で食べるよりはずっとおいしいに違いない。そう思った。  顔を上げると熱々の雑炊をスプーンですくってふぅふぅ吹いている、リックの姿が目に入った。ジンと目の奥が熱くなった。  この人をうちに連れてきてよかった。本当によかった。 「シン、どうしました? 熱いうちの方がおいしいですよ」 「こ、こんなの、まずいに決まってるったら。あ、ダメだよ、それ口に入れちゃ!」    リックは軽く笑い飛ばす。 「シンが一生懸命作ってくれたものが、まずいわけがない。君の真心がこもっていますからね。残さずいただきますよ。この国には『モッタイナイ』といういい言葉もありますし」  そう言ってパクッと口に入れ、美貌が困ったような苦笑に変わる。リック一人だけにとんでもないものを食べさせるわけにはいかない。僕も思い切って、そのすさまじい失敗作を口に入れた。 「っ……」  激烈にまずい。というか、ものすごく辛い。二人で同時にコップの水に飛びつき一気に空にし、目を合わせる。リックが先に笑い、僕もつられて笑った。おかしくて、嬉しくて楽しいのに、ツンと鼻の奥が痛くなって目が霞んできた。 「シン?」  あわてて涙を指で拭った僕に、リックは笑いを引っ込め目を見開く。 「あ、大丈夫、ちょっと辛くて涙出ちゃった」  笑ってごまかしたけれど、リックには僕の涙の理由がわかってしまったらしい。伸ばされた温かい手が、テーブル越しにそっと髪に触れてくる。優しい感触はやっぱり昨夜悪夢から起こしてくれた人のものと同じで、胸が切なく絞られた。 「リック、ごめ……えっと、こんなの一緒に食べてくれて、ありがとう」  ついつい出かかる謝罪の言葉をあわててお礼に言い換えて、軽く頭を下げると相手は、 「よくできました。私からも、ありがとう」  と、嬉しそうに頭を撫でてくれた。  僕を悪夢から引っ張り戻してくれたのは、もしかして、君?  聞きたかったけれど、勇気が出ない。僕は頭に乗せられた優しい手の感触をじっと受け止めながら、トクン、トクン、と嬉しそうに響く、自分の胸の鼓動を聞く。  ふわふわとしあわせで、でも少しだけ怖くて切なくて……こんな気持ちは初めてだ。  静かな波みたいに寄せてくる動揺をごまかそうと、雑炊をもう一さじすくって口に入れた。それはやっぱりとても辛くて、また涙が浮かんできた。

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