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第15話
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誰かが呼んでいる。どこか、遠くで……いや、意外に近くで……?
「シンちゃん……ちょっと、シンちゃんってば!」
ボーッと宙をみつめもの思いにふけってしまっていた僕は、背中を勢いよくバンと叩かれ飛び上がりそうになった。
「えっ、は、はい!」
反射的に椅子から立ち上がる。丸めたコピーの束で僕のボケた頭をポコンと叩いたのは、3年先輩の尾上舞華さん。入所以来ずっと国際交流室に所属している、外国大好きな帰国子女のお嬢様だ。
「もう、仕事中にボケっとしないでよ。ねぇ、来月の外国籍市民会議の起案、そろそろ上げてくれた?」
「あ、今日中に回します! 舞華さん、すみません」
舞華先輩は両手を腰に当て、僕がどんなに望んでも得られないGカップという噂の胸を突き出し、セクシーな肉厚の唇を尖らす。
「夜遅くまでリック先生と遊び回って、寝不足なんじゃないでしょうね。んもぅ、くやしい! あたしも対面式行けばよかったぁ! そしたらあたしのマンションに、リック先生をウェルカムだったのに」
対面式には用事があって出られなかった先輩は、翌週生徒を連れて役所を見学に来たリックにどうやら早々と目をつけたらしい。
「ええっ、だ、だって、舞華さん一人暮らしじゃ……」
「リック先生ならぜーんぜんOKなんですけど。なにか問題?」
とんでもない爆弾発言をしれっと飛ばしながら、ダイナマイトボディをくねらす。どうやら冗談で言ってるんじゃないらしい。
アラサーとは思えないその肉食ぶりは役所内でも有名で、草食系年下男子の中には『ハイヒールで踏まれ英語で罵られたい』などと奇特な野望を抱くファンも多いけれど、残念ながらご当人はイケメン外国人専門だ。
「ねぇねぇねぇ、先生とどこで遊んでるの? 彼ってどういうことが好きなのよ? 教えなさいよ」
大きな胸をプルプル揺らされ肘でつつかれても、僕には全く効果はない。柔らかい曲線を描く綺麗な体がうらやましいなと思うだけだ。それよりもリックとのことを勘の鋭い先輩に気づかれないかと焦り、僕はブンブン首を振る。
「べべっ、別に遊びに行ったりとかしてないですよ! 平日はだって、僕は仕事だし。先生は日本に詳しいから、結構一人でいろいろ見て回ってるみたいです」
「オーノー! んもぅ、マジ? シンちゃん、ちょっとホスピタリティが足りないわよ! 夏休使って君が案内してあげるのが当然でしょ? う~ん、あたしだったら、そうねぇ……」
うっとり宙を見ながら語られる先輩の妄想に適当に相槌を打ち聞き流しながら、僕はほのかに甘い溜息をつく。
夢みたいな秋葉原デートから1週間、リックのことを変に意識してしまってしょうがない。あの日かけられた魔法が、きっとまだ解けていないのだ。
平日僕が仕事している間は、リックは一人気ままに外出し見聞を広めているようだった。でも僕が帰宅する時間には必ず部屋に戻ってくれていて、おかえりと迎えてくれる。料理も彼の方がずっと上手で、ミートローフやポトフなんかがテーブルで温かい湯気を立てている。作ってもらってばかりでは申し訳ないと挑戦したちらし寿司は、リックの手助けもあって本当においしくできた。誰かに食べさせたいと思うことが、料理を上達させるコツだと知った。
一人の生活には慣れていて、人と暮らすことなんか考えただけで億劫だった。なのに、今は終業のチャイムと同時に役所を飛び出し、アパートに飛んで帰っている。
リックといるとホッとする。笑いかけてもらうとドキドキする。嬉しすぎて、しあわせで、わけもなくなんだか泣きそうになる。
僕なんかの人生、きっと大きな波もときめきもなく、一生地味に寂しく生きて行くんだと漠然と思っていた。それなのにまさかこんなことが――こんな素晴しいことが起こってしまうなんて、本当に信じられない。
毎日楽しくて夢みたいな日々。でも一方で、理性がストップをかける。ダメだ、これ以上はいけないと戒める。なぜなら、僕がリックに抱いている好意は友情と呼べるものと少し違う、行き過ぎた感情だからだ。この気持ちは昔、近所の優しいお兄さんやかっこいい先輩に抱いていた、ほのかに甘酸っぱい気持ちと似ている。
あり得ない。リックとはまだ会って1週間で、しかも異国の人だ。1週間後には遠い国へ帰って、もう会えなくなってしまう人だ。そんな人を好きになったって、どうしようもないじゃないか。
好き――そう、きっと、好きなんだ。僕はリックに恋をしてるんだ。
着飾って彼と街を歩いたときの、素敵な夢心地の甘ったるい感覚。優しく守ってくれる人に熱い目でみつめられ、甘い言葉を囁かれた。自分が印象の薄い冴えない変人男だなんてことも忘れて、お姫さまにでもなったみたいに有頂天になった。
軽く抱き締められた腕のぬくもり。触れてきた唇の温かさ。現実離れした二次元の住人みたいな美形だから体温も低そうなのに、腕も唇も熱っぽくて、僕の胸を高鳴らせた。
時間がくれば夢は覚めてしまうのに、記憶だけは悲しいくらい鮮やかに残ってしまう。店に戻り衣装を脱いでメイクを落としたとき、気持ちを切り替えなくちゃと思ったはずなのに、しあわせ感が体の奥まで染み込んでしまって、僕は未だにそこから戻れない。
あのときの話題になるとどうしても動揺しうろたえてしまう僕に気を遣ってくれているのか、リックも以来その件には触れない。熱い眼差しでみつめてくることもなく、表向きはいい友人に戻ってしまっている。そのことにホッとしながらも、胸のどこかが針で突かれるみたいにチクチクと痛む。
リックは、あのときのことをどう思っているんだろう。オープンなアメリカ人としてはあんなのちょっとしたサービス感覚で、ゲームみたいなものだったんだろうか。本気になってしまった、僕だけがおかしいんだろうか。
そっと胸に手を当て、あの日彼にもらったリングをシャツの上から確認する。本当はあの日のままに左の薬指につけていたいけれど、まさかそんなわけにはいかないので、チェーンを通してペンダントにしたのだ。シャワーのときも寝るときも、身につけて離さない。つけているだけで、あの日の幸せな気持ちを思い出すことができる。僕の宝物だ。
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