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第16話

「OH、リック!」  舞華先輩の黄色い声にハッと顔を上げた。なんと、カウンター越しにリックが手を振っている。一昨日の土曜日から、生徒さんを連れて二泊三日で京都旅行に行っていたのだ。帰ってすぐ、ここに報告に来てくれたんだろう。    リックは明らかに僕に合図してくれたのに、舞華先輩が胸を揺らしながら弾丸のごとく先にカウンターにすっ飛んで行ってしまう。律儀なリックは奥から笑顔で出て来た室長にまず挨拶して「皆さんで」とお土産を渡し、僕の方を向きかけたところでしっかり舞華さんに確保されてしまった。  先輩は甘ったるい声で流暢な英語を操り、とめどなくリックに話しかけている。話の内容は僕にはさっぱりだけど、笑顔で相槌を打っているリックも満更ではない様子に見えてしまう。英語ができればよかったと、今ほど思ったことはない。    ボーッと突っ立って綺麗な二人を見ているのもみじめで、僕はそっと自席に戻った。書類を見るふりで二人から視線を逸らし、もやもやといじけた想像に浸る。  舞華先輩がメイド服を着たら、きっと僕なんかよりずっと似合うだろう。大きく胸の開いたセクシーで大人っぽいデザインがすごく合いそうだ。やっぱりリックも、胸の大きいセクシーな女の人が好きなんだろうか。 「ねぇねぇ、シンちゃん!」  カウンターから呼ばれあわてて顔を上げると、女王様がペットの猫を呼ぶみたいに手招きしている。逆らうと後が怖いので、僕は仕方なく席を立つ。 「君金曜と土曜暇よね? キャンプ行くことにしたからね」 「は、はいっ?」  いきなり決定事項を言い渡され、僕はポカンとしてしまう。  リック達一行は次の日曜午前中の便で帰国する。その前の金曜と土曜は、まさにホームステイのクライマックスとなる日だ。どこのホストファミリーも子供達のために、思い出に残る計画を頭をひねって考えているだろう。  別れを思うと気が塞ぎ不安になるので、僕は週末のことをなるべく頭から追い払っていた。カレンダーも見ないようにしていたし、当然何の計画も立てていない。 「リック先生の日本での夏の思い出作りに協力してあげるのよ。それがあたしたち交流室員の役目ってもんでしょ? あたしも女子3人ばかり誘っておくから、君も2人くらい男性群チョイスしといてよね」 「で、でも舞華さん、金曜は平日ですよ?」 「なにか問題? 国際交流の一環で仕事のうちじゃない。室長だって喜んで夏休届にハンコ押すわ。それとも君、リック先生のためだっていうのにまさか休めないというわけ?」 「そ、そんなこと! と、とんでもない」  上から目線で軽く睨まれると、とても文句なんか言えない。 「OK、決まりね」  先輩はすっかりご機嫌に戻り、英語でリックに二言三言話しかけると、 「じゃ、あたしはさっそく人員確保してくるから」  と、僕に耳打ちして飛び出して行ってしまった。  仕事はいいのだろうか、と呆気に取られその背中を見送る僕に、「シン」と久しぶりに聞く懐かしい声が届く。顔を上げると、二日ぶりに見る綺麗なブルーの瞳とぶつかった。胸がキュンとする。たった二日離れていただけなのに、もうこんなに恋しく感じている。 「リック……おかえり」 「はい。ただいま」  微笑まれただけで、バカみたいに感動してしまう。 「あの、楽しかった?」  この2日間で話したいことも溜まっていたはずなのに、胸が詰まってうまく言葉が出てこない。仕事なんか放り出して、このまま一緒に部屋に帰ってしまいたいくらいだ。 「とても楽しかったですよ。京都は風情があってとてもいい所でした。シンは行ったことは?」 「僕? ないんだ」 「じゃ、今度一緒に行きましょう。私が案内してあげますよ」 「たった2日しか行ってないのに、もう案内してくれるんだ。すごいね」  無理に笑ってみたけれど、ちゃんと笑えているかどうか不安だった。 『今度』なんて、そんな日が本当にくるんだろうか。そう思うと胸の奥がズキズキ痛む。 「それより週末のキャンプのことですが、迷惑ではなかったですか? 私が、君が行くなら行くと言ったものだから」  リックが青い目を心配そうに細め見下ろしてくる。同年代の日本人の若者とキャンプ――きっとステイ最後の楽しい思い出になるに違いない。リックのためになることを、僕が邪魔するわけにはいかない。団体行動もアウトドアも苦手で正直気は進まないけれど、僕が行かないと言い出したらリックは気にしてしまうだろう。 「全然迷惑なんかじゃないよ! 夏はやっぱりキャンプだよね。僕もたまにはそういうの行きたいし。一緒にいい思い出作ろうね」  作り笑いはどう頑張っても、やっぱり彼にはバレてしまうみたいだ。リックは困ったように苦笑すると両手を広げた。 「シン、無理はしないでいいから。やはり舞華に断りましょう」  リックが先輩を名前で呼んだことの方がむしろショックで、僕の胸はわずかに痛む。2人が親しげに話していた場面が蘇り、胸の中にぼんやりと黒雲がかかったみたいになった。 「ううん、ホントに大丈夫。リックも僕と2人でばっかりいないで、いろんな人と話した方がいいよ。僕もリックが一緒なら、たまには大勢っていうのも楽しいかもしれないし。舞華さんは旅行好きだからいいとこいっぱい知ってるんだよ。任せておけばいいと思う」    見苦しいやきもちに気づかれたくなくて、僕は不自然なほど早口でまくしたてた。 「ん、そうですね。私もシンと、どこか景色の綺麗な所に行ってみたいです。きっといい思い出になるでしょう」  ごくごく普通に軽い調子で、まるで社交辞令みたいにそう言ってリックは微笑む。もしも僕がここで、『週末は2人きりで、ずっと部屋にこもっていたい』なんてとんでもないわがままを言い出しても、彼のことだから多分OKしてくれる。でもそんなふうに二人だけの時間を引き延ばしても、ますます別れがつらくなるだけなんだ。大勢でいた方が、きっと気が紛れる。 「シン」  呼ばれて、顔を上げた。優しい瞳がじっと僕をみつめている。アキバ以来見せなかったほのかな熱をその澄んだ青い湖の底に見て、僕の胸はギュッと搾られる。 「2日間、君と離れてみてわかったことがあります。今日、帰ったら話が……」  真剣な顔で言いかけたリックが言葉を切った。可愛い声と足音と共に、ハイスクールの生徒達が駆け寄ってきたのだ。リックが英語で何か言うとはしゃいでじゃれかかっていた彼等は行儀よくかしこまり、こちらに頭を下げる。二泊三日の強行軍の旅でも、疲れた様子は全くない。みんな興奮さめやらぬ様子で楽しそうに頬を上気させている。  続いてもう一人女の子が駆け寄ってくると、真面目な顔でリックに話しかけた。何か困ったことが起きたようだ。リックは彼女を落ち着かせるように、一言二言短く答えている。 「あの、リック、何かあったの?」 「ああ、他に2人いた生徒がトイレに行くと言って別れたきりいなくなったらしいです。ここにいることは言っておいたのですが」  リックは苦笑で肩をすくめる。 「ガイドボードが日本語で建物も広いので、迷っているのかもしれませんね。心配しないでください。彼等は目立つからきっとどこかに……ああ、来ました」  噂をしていると廊下をパタパタと元気よく駆けてくる、男子2人の姿が目に入った。 「よかったね」  大切な異国のお客様だ。無事にみつかり僕も安心する。 「ご心配おかけしました。それじゃシン、また後で」  片手を上げ、生徒達を引率して行くリックの後ろ姿を見送って、僕はホッと息をつき自席に戻った。終業まであと2時間、残業にならないように早く仕事を片付けてしまおうと書類をひっくり返しかけた手をふと止めた。さっきのリックの言葉が引っかかったのだ。  生徒達は、案内板が読めなくて迷ってしまったと言っていた。フロアの各課の天井にはそれぞれ見やすい位置に課名の表示板がぶらさがっているけれど、当然日本語表記だけだ。一階正面のインフォメーションにある案内板もすべて日本語で書かれている。これでは確かに、外国の人は迷ってしまうに違いない。  もしも課名表示板の日本語の下に英語表記があったら、彼等にもわかりやすいんじゃないだろうか。  突然ひらめいたアイデアだった。この交流室に異動してからはずっとテンションが低く、こんなふうに何か思いつくなんて初めてのことだった。課名の英訳だけみてもらえば、英語表記のラベルなんか簡単にパソコンで作れる。案内板も外国人用のものを別に作って一階に置けばわかりやすいだろう。  役所に用事で来る外国の人が、みんなリックのように日本語が流暢なわけじゃない。むしろその逆だ。きっとこのアイデアは、外国籍の人達に喜んでもらえる。  ここに配属される前にいた情報システム課は直接市民と接しない分、自分の仕事がどういう形で役に立っているのかわかりづらかった。人と接するのが苦手な僕にはその点がむしろ居心地よかったけれど、こうして誰かの顔を浮かべて、その人の役に立ちたいと思うことで膨らんでいく名案もあるんだ。  おとなしく首をすくめて言われたことだけやって、1、2年我慢すればいいや、と思っていた。でもこの交流室でも、何か僕がやれることがあるかもしれない。  僕は思い切って立ち上がり、室長の席に向かった。  そんなつまらんアイデア持ってくる暇があったら英会話の勉強でもしろ、とはねつけられるかもしれない。でもきっと今は勇気を出して、一歩を踏み出すときなんだ。 「あ、あの、室長、今ちょっと、よろしいでしょうか」  僕はギュッと拳を握り、眠そうに回覧文書をめくっている室長に声をかけた。

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