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第18話

 ダメだとわかっているのに、彼を見上げる瞳は勝手に潤んできてしまう。僕の気持ちだって? そんなの、言わなくてももうとっくに魔法でわかっているくせに。 「リック……僕、僕も……んっ」  いきなり唇をふさがれ、僕は思わず目を閉じた。初めて触れてきたときの優しい感触とは違う、心まで吸い取ろうとするかのような深い口付けにめまいを起こしそうで、僕はそっと彼の腕につかまる。  本当は、もう一度こうしてキスされたかった。そんなこと望んじゃいけないと自分を戒め、ごまかしてきた。けれど、触れられてしまえばもう抑えられない。  合わされた唇の間から強引に入り込む彼の舌は僕の口腔を隈なくさまよって、体の奥に眠らせていた不思議な感覚を起こそうとする。怯えて離れようとする背中を力強い腕に引き寄せられ、息が止まるほど拘束される。 「や……っ」  首を振ってなんとか逃れ、もうやめて、と相手を見上げると、切羽詰まった色を湛えた神秘的な瞳が映る。 「シン、もう限界です。この1週間、君に触れたいのをずっと我慢してきた」  熱っぽい囁きが耳に注ぎ込まれ、背を抱かれたままソファに押し倒された。いつもの紳士的なリックのものではない強引さにふいに不安になって、僕は身をよじる。 「リックっ、や……いやだ……っ」  触れられることは嫌じゃない。ただ、乱暴にされると怖いのだ。 「どうして? 君も私のことが好きでしょう? 隠そうとしてもダメです。顔を見ればわかる」 「そ、それは……でも僕、こういうの……っ」  泣きそうな声を上げる僕の震える唇を、もう一度キスが塞ぐ。火傷しそうな熱い指がTシャツをたくし上げ、じかに触れてくる。その動きの荒々しさがいつものリックとは別人みたいで、僕の体は萎縮する。 「っ……」  離れた唇が熱っぽく、僕にはわからない異国の言葉を発した。その瞬間、視界が暗転した。背中のやわらかいソファが、冷たく硬いアスファルトに変わる。  交わされる異国の言葉と下卑た笑い声。体の自由を奪う何本もの手。引き裂かれる服。  嫌だ、怖い……逃げ出したい……!  叫びたくとも声が出ない。呼吸が乱れ、まともに息ができない。苦しくて、涙がにじんでくる。 「や……嫌だ、リッ……!」  上がる息の下から、かすれる声を必死で絞り出した。 「助けて……! リック……リック……!」  涙が目尻を伝って落ちた。今僕を押さえつけている強引な誰かにではなく、いつも優しく微笑み包んでくれたリックを、僕は無意識に呼んでいた。  急に、体の拘束が解かれた。恐怖で完全に強張ってしまった僕は、ぶるぶる震えたまま指先一本動かすことができない。 「シン……!」  リックの声が、すぐそばで聞こえる。ああ、助けに来てくれたんだ、と漠然と思ったら、安心してさらに涙が湧き上がってきた。 「シン、どうしました! 大丈夫? ごめん……ごめんなさい」 『ありがとう』に言い替えられない『ごめんなさい』を、リックは何度も繰り返す。グッタリと脱力し動けないでいる僕の上体をそっと起こし、ふわりと抱き締めてくれながら。 「君が嫌がることはもうしないよ。約束する。だから安心して。ゆっくり息をして。そう」  いつものリックに戻った優しい声に癒されて、強張った全身から力が次第に抜けていく。 「君の気持ちも確かめずに、求めてしまって悪かった。ただ、私の想いもわかってほしい。私は日曜日には帰国してしまいます。だから今、君との確かな約束を交わしておきたいんです」  リックの気持ちは泣きたくなるほど嬉しい。僕だって受け入れたい。でもこの胸に巣食う暗いトラウマは、きっと思っているより根が深いんだ。こんなにリックのことで頭が一杯で、あのときみたいに触れられたい、キスされたいって思っていたはずなのに、いざとなったらパニクってしまうなんて。  きっとこれは罰だ。人間は分不相応なしあわせを望んじゃいけないんだ。だって誰がどう見たって、リックは僕にはもったいな過ぎる。 「ぼ、僕……やっぱり、無理、だから……」  嗚咽の下から訴える。こんなにつらい想いをすることになるとわかっていれば、対面式の日に彼を引き受けたりしなかったのにと、後悔すら湧き上がる。楽しかった時間のすべてを、知らなかった頃にはもう戻れない。思い出が増えれば増えるほど、別れがつらくなるばかりなのに。 「僕、リックの気持ちには、答えられないから。このまま……友達のままで別れようよ。絶対、その方が、いいから」  本当はそんなの嫌なのに、自己防衛が働いて唇が勝手に動く。12時になれば王子さまとはさようなら。魔法は解けて、シンデレラは元の貧しい暮らしに戻らなきゃならないんだ。  大丈夫、きっと、そのうち慣れるだろう。リックと出会う前はずっと一人で、それが寂しいことだなんて気づかないでなんとかやってこられたじゃないか。また元に戻るだけの話だ。なんでもない。  無理矢理そう思おうとしても、意思に反して涙は溢れてきてしまう。体が半分に引き裂かれそうな痛みを、髪を撫でる指のまろやかな感触が少しだけ癒してくれる。 「シン、泣かないで。君がそんなに悲しむのなら、私からはもう無理に君を求めない。でも、まだ日はあります。だから考えてほしい」    優しい声が降りてきた。 「恋に落ちるのに長い時間は必要ない。君との出会いは運命だったと私は信じています。君はきっと、私の人生というジグソーパズルの中の一番大切なピースに違いない。それなのに、物理的な距離があるからなどという理由で、諦められると思いますか?」    自分がパズルの小さなピースになってリックの胸の中に入り込み、ピッタリはまるところを想像してみた。それはとても心地いい安心感があって、本当にそうだったらどんなにいいだろうと思ったけれど、現実には絶対無理なんだ。  きっと、リックだってすぐに気づく。僕とのことは日本という国の不思議が見せた、つかのまの錯覚なんだって。アメリカへ帰って元の暮らしに戻れば、異国でちょっと交流しただけの僕のことなんかすぐに忘れてしまえるだろう。 「僕……僕には、難しいよ。無理だよ。リック、ごめ……ありがとう。リックとのこと、いい思い出になったよ。楽しかったよ」  そっと胸に手をやり、リングを握った。たとえリックが忘れてしまっても、僕は絶対忘れない。この指輪を見るだけで、彼と過ごした楽しい日々をまるで昨日のことみたいに思い出せるだろう。きっと、この先何十年一人でも、その思い出だけで生きて行けるだろう。 「僕なんかを好きって言ってくれて、本当にありがとう」  もう一度繰り返すと、涙を拭うように頬にそっと唇が押し当てられた。 「シン、もう終わったようなことを言わないで。時間はいくらでもあります。勇気を出して私の手を取ってほしい。ギリギリまで返事を待っています」  温かい声が傷付いた胸をくるんでくれるけれど、臆病な僕には別れに耐える強さも、トラウマを乗り越える強さも持てそうもない。『ごめんね』と心の中でつぶやくと、止まりかけた涙がまたこぼれてきて、黙って抱いてくれている彼の肩を濡らした。

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