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第19話

***  雨で中止になればいい、なんて考えていたから、きっとばちが当たったんだろう。キャンプ当日の金曜は、見事なくらい晴れ渡ったいい天気だった。 『舞華様が行くなら行く』という奇特な人は山ほどいて、情報システム課時代に一緒だった先輩職員2人に声をかけると、それこそ二つ返事でOKしてくれた。舞華さんが機嫌を損ねないようそれなりのイケメンを選んでみたけれど、特にプライベートで僕と親しいわけでもなく、話し相手にはなってくれそうもないアウトドア系な人達だった。  僕等3人、舞華さんと友達の女性3人――当然舞華さんよりレベルが落ちるあたりさすがな人選だ――それとリックの8人で、レンタルしたキャンピングカーで長野のキャンプ場へと繰り出した。  一泊する予定のコテージは元々どこかの財閥の別荘だったという洒落たログハウスで、全員分の個室がある豪勢な作りだった。部屋貸しだけで食事や掃除はセルフだけれど、その分自由がきく。いいもの好きの舞華先輩のセレクトらしく、女性にも好まれそうなセンスのいい内装が素敵で、僕も秘かに気に入った。    荷物を置くと、すぐに近くの川原でバーベキューが始まった。車中での盛り上がりにすでについていけず、ずっと寝たふりをしていた僕はもうすでに疲れきっていた。静かな部屋にこもってじっとしていたかったけれど、そんなことを言い出して場をしらけさせるのも気が引けた。  あまり親しくないメンバーとの団体行動も疲れた原因だけれど、舞華さんがリックのそばを離れずアタックをかけ続けるのを見ているのが何よりもつらかった。  あの夜以来、リックは強引に触れてくることも、僕の気持ちを問いただしてくることもない。それまでどおりおいしい食事を作り僕の帰宅を待って、気まずさに黙りがちな僕を楽しい話題で盛り上げてくれる。何事もなかったように、穏やかな時間が続いている。そのまま時は自然に過ぎて、もう明後日には彼を空港まで送ってさようなら。それで、終わりのはずだったのに。    どうしたらいいんだろう。僕はまだ、リックのことを諦めきれていないのだ。  話の合間に沈黙が降りたとき、ふと気づくと注がれている熱のこもった眼差し。  僕の答えを、彼はまだ待ってくれている――そう思うと、迷い始める。舞華さんが彼にベタベタするのを見るだけでイライラするくらい本当は未練たっぷりなのに、悟った顔でさよならなんか言えるんだろうか。  だからと言って、やっぱり僕には自分を変える勇気なんかないのだ。麻薬中毒みたいに甘い思い出に浸って、つらいことや怖いことには向き合わず、夢の中だけで生きていたい。僕は本当に、情けなくてダメなヤツなんだ。    空は快晴なのに僕の胸は雷雨前みたいな混沌とした曇り空で、せっかく舞華さんが奮発した高い肉や新鮮な野菜の味もろくにわからない始末だった。しまいには周囲に合わせて笑顔でいるのすら息苦しくなって、ちょっとコテージで休んでくるとシステム課の先輩に耳打ちし、そっと一人輪を離れた。  一人になると、周囲の静けさに心がなごんでホッとした。真夏なのに穏やかな緑に囲まれた大気は涼しく澄んでいて、体の中から浄化されるような清々しさを感じる。出不精な僕は旅行なんかほとんどしないけれど、たまにはこういう高原に一人旅もいいな、と思ってしまう。  いや、2人だったらもっと楽しいかも、と、無意識にリックの笑顔を浮かべてしまい、あわてて首を振る。本当に、未練がましい。  物思いにふけりながらコテージに向かってフラフラ歩いているうちに、いつのまにか結構川の上流まで来てしまったようだ。さらさらと流れる水は透明で、そのまますくって飲めそうなくらい透きとおっている。  少し休もうと、僕は川岸に突き出た大きな石に座り、靴を脱いで足を水に漬けた。穏やかな流れが、火照った足を気持ちよく冷やしてくれる。聞こえるのは水の音と鳥の声だけ。こうしていると嫌な黒雲に覆われていた胸も、次第に晴れてくるようだ。    きっとみんなは、食後のゲームかなんかに興じている頃だろう。僕がいなくなったことなんか、全然気づかないに違いない。  あの集団の中ではポジション的にアウェーでありながら、リックはすぐに輪の中心になった。流暢な日本語と巧みな話術、近寄り難いハンサムなのに社交的で気やすい雰囲気は、国境なんか軽く飛び越え人を魅了してしまう。舞華さん始め女性群はもちろん、リックにセンターを持って行かれて最初は憮然としていた男性群も、バーベキューを囲む頃にはすっかり一緒に盛り上がっていた。  これで、リックも最後にいい思い出ができただろう。ここ何日かの僕と2人の気まずいムードなんかすっかり忘れて、楽しいことだけ覚えて帰ってほしい。  アメリカに帰って日本でのステイの日々を思い出すとき、ほんの少しでも、僕を思い出してくれることがあるだろうか。ああ、そういえばあのときのにわかホストファミリーのヤツが、ちょっと面白かったなって。女の子みたいなものが好きで、料理が下手で、気が弱くて臆病だったけど、あいつは多分本当は俺のことを大好きだったんだろうなって。  僕はきっと毎日思い出すけれど、リックは年に一回この時期に、ほんの10秒くらい思い出してくれればいい。  本当に、それだけで十分だ。  ジーンズのポケットからリングのペンダントを取り出して、手のひらに乗せた。地味な人間が柄にもなくアクセサリーなんか身に着けていると、からかいのネタにされるに違いないのではずしていたのだ。手の上で光るアクアマリンの水色が、リックの澄んだ瞳を思い出させる。  劣等感の塊で自信のなかった僕を認めて、そのままでいいと受け入れてくれた人。夢を叶えて、忘れていた笑顔を取り戻してくれた人。彼がぬくもりを伝えてくれたおかげで、本当はずっと自分が寒かったのだと僕は知った。  お別れのときには、頑張って笑ってありがとうと言おう。最後には、笑顔を覚えて帰ってもらいたいから。  リングを持ち上げて目の上にかざしてみる。日の光を反射して、今日の空の色みたいなブルーがキラキラと輝く。最初にはめてもらった左手の薬指が急に疼いて、根元にそれを欲しがった。  一人でいるときくらいは、元の場所に戻してあげることを許してもらえるだろうか。

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