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第21話
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『シン……』
優しく呼ぶ声がする。この声は……そうだ、僕を悪夢から救い上げてくれた声だ。
そして、握られる手から伝わるぬくもり……。
行かないで、とそっと握り返した。
「シン……! 気がつきましたか?」
目を開けると、至近距離で覗き込んでいるリックの顔が映った。
天国ってなんていい所なんだろう。都合よく、一番会いたい人の幻が見えるなんて……。
「え……ちょっと待って……もしかして、リックも一緒に、天国に来ちゃったの……?」
まさか、僕を助けようとして一緒に溺れたとか?
僕はあわてて気だるい体を起こそうとした。両肩をそっと押さえられ、もう一度寝かされる。
「大丈夫、ここは天国じゃありません。コテージの君の部屋です。私達はちゃんと、生きてますよ」
僕の手を握ったまま、幻でないリックが笑いかけてくれる。その瞳は深い安堵と慈しみに満ちていて、僕は自分がどれほど彼に心配をかけていたかを知る。
「リックが……助けてくれたの……?」
僕の手をさすりながら、彼はちょっと照れたような苦笑を見せる。
「白状しますね。実は私は全く泳げないんです」
「え……」
意外だ。なんとなくリックはすべてを完璧にこなせてしまう、欠点のないイメージがあったから。
泳げないのに川に飛び込むのは、相当な勇気が要っただろう。でも彼は、僕が流されかけたとき、迷わずそうしてくれた。百の言葉より雄弁なその行動を思い出し、僕の胸は改めて感動で熱くなる。
「でもあのときは、君を守らなくてはと必死でした。人間そうなると、意外にどんなことでもできるものですね。気がついたら君を抱えて、岸に這い上がってました」
リックがカナヅチだなんて全然わからなかった。だって僕は、ずっと安心していられたから。温かい腕に包まれて、少しも不安を感じなかった。
そしてその感触は、あの夜悪夢から救ってくれた人のものとすっかり同じだった。
「やっぱり、あのときも……リックが助けてくれたんだよね?」
「あのとき?」
「僕が、夢でうなされてたとき。手を握って眠らせてくれたの、リックだったんでしょう?」
ああ、とリックは思い返すように目を細め、頷く。
「君の苦しそうな声が聞こえたので、許しも得ずに寝室にお邪魔しました。なんとか安心させてあげたいと思って、声をかけ手を握りました。覚えているのですか?」
「うん……すごく、よく覚えてる。すごく、安心したんだ」
リックに撫でられている手が、しっかりと何かを握り締めているのに気づく。
そっと開いた手のひらには、命がけで救った思い出の指輪が乗っていた。リックは僕の手からそれを取ると、迷わず薬指にはめてくれる。あるべきところにあるべきものが戻ってきた安堵感に、僕の体はじんわりと温まる。
「僕ね、大学生のとき友達に連れて行かれたクラブで、外国の人達に無理矢理飲まされて、乱暴されかけたことあるんだ」
リックには、もう隠しておきたくなかった。僕の厄介なトラウマのすべてを打ち明けてその上で、それでもいいと言ってほしい。
「僕は人数合わせで誘われただけだったんだけど、いつのまにか友達とははぐれちゃって。気がつくとその人達に囲まれてて。最初は親切だったんだよ。言葉は全然わからなかったけど、優しく声をかけてもらったときは嬉しくて、ちょっと無理してつき合ってたら強いお酒を飲まされちゃってたみたい。向こうは最初から、そのつもりだったんだよね」
ずっと一人で抱えていた重い秘密を吐き出すごとに、心が軽くなっていく。リックが優しく頬を撫でていてくれるから、嫌な記憶をもう一度たどる勇気が出る。
「運よくお巡りさんが通りかかって未遂だったんだけど、そのときのこと今でも忘れられなくて……いまだに夢でうなされるんだ。だからこないだも、リックにああいうふうにされて……僕、あのときのこと思い出して……」
「シン、もういいです」
「リックはあのときのあいつらとは全然違うって、わかってるし、僕も好きなのに……ホントは嬉しいのにパニクっちゃって。ごめんね。ごめん……」
『ありがとう』に言い換えられない『ごめんなさい』を繰り返す。涙が伝い、頬に触れた彼の手を濡らす。相手の綺麗な顔が降りてきて、思わず目を閉じた。唇に触れるぬくもりが傷を癒し、体中に優しさが染み渡る。
「そんなつらいことがあったなら、拒むのは当然です。そうとも知らずに、大事な君に怖い思いをさせてしまった。私の方こそ、本当にごめんなさい」
抱き締められて、涙が止まらなくなった。
きっと、もう大丈夫だ。リックなら、ずっと抱えていたトラウマを温かい光でほどき、消し去ってくれるだろう。彼の腕が触れている部分から伝わるぬくもりが、そう確信させてくれる。
「でも、安心してください。これからは恋人の私が、すべてのつらいことから君を守るから。嫌だとは言わせません。君の本心は、もう聞きましたからね」
ちょっと笑いを含んだ声に思わず目を開けると、ひどく嬉しそうな相手の瞳とぶつかって頬が熱くなった。土壇場の状況だったとはいえ川での爆弾告白を思い出すと、冷静になった今はさすがに恥ずかしくなってくる。『恋人にして、お願い』なんて、僕の人生史上口にするはずのない、似合わない台詞だっただろう。
僕が真っ赤になって視線を逸らしたことが、リックをさらに喜ばせたようだ。とろけるような笑みを向けられ、僕はさらにうろたえてしまう。
「ごまかそうとしてもダメですよ。これから君を抱く。私のものにする。いいね?」
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