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第39話 伸びた髪

 土曜日が来た。  ベッドから起き、カーテンを開けると青空が視界いっぱいに広がる。  あぁ、今日も暑くなりそうだな。  俺は頭に手をやり、大きな欠伸をした。  やべえ、だいぶ髪、伸びてきた。  髪切ったの、高校卒業前だったよなあ……  切りに行きたいけれど、躊躇してしまう。  このうなじにある噛み痕を、人に見られたいとは思わない。  その意味を知ってしまった今は、さすがになあ……  ガーゼでも貼れば行けるか?  いや、でもそれはそれじゃあ髪洗われるとき困るよな……  でも、見られたくねえし……  どうしよう。  少し視界に邪魔になった黒髪を掻き上げて、俺はため息をついた。  十二時四十五分。  いつものようにバイト先のロッカールームに着くと、案の定瀬名さんが着替えている所だった。  白いTシャツの上にエプロンをつけた彼は、俺を見るとにこやかに手を振る。   「おはよう、結城」 「あ、おはようございます」  軽く頭を下げて俺は自分のロッカーに向かう。  ショルダーバッグをおろし、ロッカーを開けようとすると、 「ばあ」  なんて言いながら、瀬名さんが後ろから抱き着いてくる。 「――!」 「今日もあるねえ、噛み痕」  楽しそうに笑いながら、瀬名さんは俺のうなじに顔を近づける。  やべえ、くすぐったいしゾクゾクしてくる。 「何やってるんですか、こんなところで!」  身をよじり抵抗をすると、瀬名さんはばっと俺から離れた。 「あれ?」  と、呟いて。  あれ、ってなんだよ全く。  いつ人が入って来るかもわからないのに、なんでほいほい抱き着いてくるんだ、この人は。  俺はロッカーを開けて、いつものように制汗スプレーを取り出す。 「ねえ、結城」 「何ですか」 「匂いがする」 「それは知ってますってば」  どうせ、千早の匂いがするって話だろう。  それはもうわかったから。  そう思い、俺はスプレーを吹き付ける。  今日も外は暑かった。  かなり汗をかいたので、スプレーが気持ちいい。 「だからさ、そうじゃなくって」  と言い、瀬名さんは俺の肩を掴む。 「なんなんですか、いったい」  振り返ると、真面目な顔をした瀬名さんがいた。 「彼のじゃない、別の匂いだよ。オメガの匂いがする」  オメガの……匂い?  え、なんで?  動揺のあまり、俺は持っていたスプレー缶を落っことしてしまう。 「あ……」  俺が拾うよりも瀬名さんの方が早くしゃがみ、それを拾ってくれた。 「ありがとうございます」  頭を下げてスプレー缶を受け取り、俺は言った。 「あの、どういうことですか? その、オメガの匂いって……」 「わずかだけど、そう言う匂いがしたからさ。でも、普段はしないから、オメガの子と接触があった? 家に行ったとか」  家には行った。  昨日、宮田の家に。  黙って頷くと、瀬名さんは顎に手を当てた。 「そっかー。だからわずかだけど匂いがするんだね。まあ、僕は鼻がいいからわかったんだと思うけど、君の彼氏にはわからないといいね」  そう笑顔で言い、瀬名さんは俺の頭に手を伸ばしてくしゃくしゃにしてくる。 「ちょ……何するんですか!」 「髪伸びたねーって思ってさ。首のやつが気になるなら、そう言う子がやってる美容室、教えようか?」 「お……」  お願いします、と言いかけ、俺は口を閉じる。  確かに髪は切りたい。  けれど、この人に紹介してもらうのはなんだか癪だ。  ……でもなあ、いつも行っている所に行く勇気はない。  俺はこの噛み痕の意味を知らなかったけど、もし美容師が知っていたら?  それで何か憶測が流れても正直嫌だ。  気にしすぎだとは思うけど。  戸惑っていると、瀬名さんが俺と視線を合わせ、にこっと笑う。 「別に、気にしなくたって大丈夫だよ。人にとって、それはただの意味のない傷でしかないんだから」  そう言われると、心が少し軽くなる。  なんなんだろう、この人は。  俺の心に響く言葉ばかり言ってくる。 「あとでお店の名前送っておくよ~」  と言い、瀬名さんは離れて行く。 「え、あ、ありがとうございます」    髪、切りに行けると思うと嬉しくなってくる。  俺はロッカーからエプロンなどを取りだし、仕事の準備を始めた。  仕事を終え、職場を後にし俺はいつものように東口のコンビニに向かう。  いつも、千早と待ち合わせる場所だ。  スマホを開くと、瀬名さんからメッセージが来ていた。  昼に行っていた美容室の地図情報が載っている。   『ここ、オメガの子がやってるんだよー。だから、大丈夫!』  と書かれているけれど、それはそれで何か誤解が生まれそうな気がするんだけどなあ。  っていうか、どこでそう言う店知るんだこの人。  瀬名さんの性格なら、交友関係は広そうだしなあ…… 『ありがとうございます、行ってみます』  と返すと、ハートが乱舞したスタンプが返ってくる。  俺はそれを見なかったことにして、スマホをしまう。  早く行かないと、千早が待っている。

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