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第49話 七月二日土曜日雨

 七月二日土曜日。  休みなのをいいことに、俺は昼まで寝ていた。  正午を過ぎ、寝るのに飽きて起き上がる。  スマホを見ると、瀬名さんからメッセージが来ていた。 『おっはよー。今日はよろしく。でさ、夕飯ここから選んどいてね』  その後に、デリバリーサイトのURLと、ハートが乱舞したスタンプが送られてくる。  ……俺、貴方の恋人とかじゃないんだけどな。  俺の貞操、大丈夫かな。  一抹の不安を抱え、俺はベッドから起き上がった。  今日は朝から雨が降り続け、やむ気配は全くなかった。  十七時二十分。紺色の傘を手に、俺は約束のコンビニ前に着く。  いつも千早と待ち合わせる東口じゃなくって、西口のコンビニだ。  ちょっと早かったな。  たぶん瀬名さんは十七時までバイトなんだろう。  ってことはもうしばらくすれば来るかな。  誕生日かあ。  俺の誕生日は十二月四日で、千早は七月の末だったと思う。  そうか、千早の誕生日近いのか……  そう思うと、胸に鈍い痛みが走る。  なんでだこれ。  去年まで当たり前のように祝っていたはずの友達の誕生日。  でも今は……  心に広がるもやもやの意味が分からない俺は首を振り、瀬名さんが来るのを待った。  しばらくして、白いパーカーに帽子を被った瀬名さんが、小走りにやってきた。  手には、ケーキが入っているであろう大き目な箱を持っている。  ……ホールケーキって言ってたっけ。  え、まじかよ。  男ふたりでホールケーキ喰うのか?  彼は帽子のつばを持ち上げ、俺に笑いかけた。 「お疲れ、結城」 「お疲れ様です。あのそれ、ケーキですか?」 「うん。ティラミスだよー。あと食事はデリバリー頼んであるよ。車で来たから、行こうか」  あ、やっぱり貴方の家に行くんですね。  そんな気はしていた。  大丈夫かな……いや、大丈夫だと信じたい。  俺は生返事をし、瀬名さんの横を歩いた。  ピザ二枚に、ポテト、それにサラダがテーブルに並ぶ。  瀬名さんは二十歳になった、と言う事で白ワインのボトルを開けていた。  俺はまだ未成年なので炭酸ジュースだ。   「瀬名さんて、実家遠いんですか?」  ピザを食べつつソファーの隣に腰かける瀬名さんに尋ねると、彼は首を横に振る。 「ううん。市内だよ」  そして彼はポテトを口に放り込んだ。 「え、何で市内なのにひとり暮らし……」 「追い出されたから」  事もなげに言い、瀬名さんは白ワインのグラスに口をつけ、にんまりと笑う。 「甘くて悪酔いしそうだなあ」 「酔わないでください。っていうか、追い出されたってどういう意味ですか」 「え? 両親、特に父にとって僕は邪魔なんだよ。『番』である僕の『母』と過ごすのにね」  番。そうか、そもそもアルファってオメガからしか生まれない。だから瀬名さんの「母」ってつまりオメガなのか。 「僕の『母』は、十七で僕を産んだんだよ。運命の番である父に強引に抱かれて」  瀬名さんは笑顔で語り、白ワインを飲む。  紅い縁の眼鏡の奥にある目は、笑っていない様に見えるんだけど。ちょっと怖い。 「ご、強引て……」 「『母』は十六だったそうだよ。父に会ったとき。父はいくつだったっけな。忘れちゃった。医学生だったと思うけど。父は『母』を独占したいんだよ。それに僕は邪魔だから、さっさと追い出したんだ。その割には進路に口出してきてケンカしたけど」 「進路でケンカですか?」 「うん。僕は小児科に行きたいんだけど、父は外科に行けと言ってさー。まあ、しばらく帰ってないよね。連絡も取ってないし」  千早も追い出されたみたいなこと言ってたっけ?  何なんだ、アルファの家庭ってどっかおかしいのか?  複雑な思いになっていると、瀬名さんはグラスを置き、俺の頬を両手の指で掴み、ぐいっと引っ張る。 「にゃにしゅる……」 「暗い顔をするからだよ。僕の身の上話なんてどうでもいいことだよ。今僕はこうやって生きて生活しているし、好きなことやっていられるしね。ねえ、結城、笑っているのが一番だよ」  そして瀬名さんは俺の頬から手を離す。  顔、いてえ。  笑っているのが一番、かあ。  当たり前のことだけど、今の俺にはすごく難しいことのように感じてしまう。   「だからさ、僕は君が苦しむ姿を見たいとは思わないんだよ。その苦しみが、なくなるといいけど」  苦しみ。  俺の苦しみって何だろう?  何に俺は苦しんでる?  ……あ、考えたらまた、胸が痛くなってきた。 「俺は……何でこんな……」  呟きそして、俺は胸を押さえる。  徐々に呼吸が早くなったとき、身体を抱きしめられた。  瀬名さんの纏う匂いは何だろう。  香水? 「まさかこんな話で苦しくなるなんて思ってなかった。ごめんね」  優しい声が耳元で響く。   「君は、自分が何かに苦しんでいるっていう自覚、ないのかな」  そんな自覚があったら俺、苦しんでなどいないんじゃないだろうか。  俺は抱きしめられたまま、うんうん、と頷く。   「君の様子が明らかに変わったのは、五月に、バイトを休んでからだよ」  五月。バイトを休んだ日。  それが何を意味するのか気付き、俺の鼓動はどんどん早くなっていく。  千早に、部屋に連れ込まれて抱かれた日。  そしてその直後の水曜日に確か、瀬名さんに匂いがするって言われた記憶がある。   「君は望んで、彼に抱かれているわけじゃないのかな」  核心をつかれ、俺の心臓は止まりそうになる。   「この間、君が過呼吸を起こしたきっかけの話が、君の彼氏の話だったからさ。関係あるのかなって思ったんだ。君が苦しい原因は彼じゃないのかなって」  それを聞いて、俺の心のどこかで、ぴきり、と音がしたような気がした。  千早。  宮田の発情。  五月の出来事。  望まない関係。  変えられた身体。  ――偽物の番。  色んなことが一気に頭の中を流れて行き、俺の息はどんどん苦しくなってくるし、胸の痛みも強くなっていく。  なんでこの人は、今俺に、そんな話をするんだ? 「せ、な……さ……」 「僕は君を傷つけようなんてしないよ」  傷つけようとはしない。  確かにそうかもしれない。  俺がずっと見ようとしなかった現実を、見せようとしているだけなんだから。  震える手で俺は、瀬名さんの腕を掴んだ。  そのとき俺の視界が歪んでいることに気が付き、泣いていると自覚する。  俺の頭の中がぐちゃぐちゃだった。  苦しみの原因。  この痛みの理由。  五月から変えられた生活。  千早は宮田に拒絶されて少しずつ心を壊していった。  それは俺も目撃している。  あいつが発情した宮田に逃げられたとき、明らかにおかしかった。  逃げられた怒りを俺にぶつけてそして――  その後の出来事を思い出し、俺は瀬名さんの腕を掴む手に力を込める。  望んでいたわけじゃない。  こんな関係。  大学に入って、世界が広がると思っていた。  でも現実は?  千早と言う世界に俺は囚われ、俺の知らない運命に絡め取られようとしている。  俺が望んだ世界とは明らかに違う。  そうか。  俺は、あの日から少しずつ、心に傷を負っていた……?  千早に抱かれたあの日から。  違う。千早が悪いわけじゃない。  でもあいつが俺を、。   「お、れは……」  俺の頭の中はめちゃくちゃだった。  現実を認めたくない自分と、現実を直視しろと訴える自分と。   「琳太郎。ここには僕しかいないよ。だからいくら泣いても、感情を出しても大丈夫だよ」  瀬名さんの声を聞き、涙がどんどん溢れてくる。   「僕が、受け止めるから」  何か言いたいのに何を話したらいいのかわからないし、言葉にもできない。  出るのは嗚咽ばかりだった。

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