50 / 66

第50話 センセンフコク

 どれくらい時間が経っただろうか。  体感では十分も経っていないように思う。  その間俺は、瀬名さんに抱きしめられたまましばらく泣いていた。  瀬名さんに色々と喋りたいのに、涙がこみ上げ何も話せない。   「思った以上に、重傷らしいね」  瀬名さんが真面目な声で呟くのが聞こえてくる。  重傷。  誰が?  何が重傷?  だめだ。  考えれば考えるほど、思考がまとまらず苦しさが溢れてしまう。   「せ、な……さ、ん……」 「無理に話そうとしなくてもいいよ。その様子じゃあ無理でしょ?」  確かに声を出そうとすると涙が出てきてしまう。  こんなの初めてだ。  感情が俺のコントロールから離れているような感じがする。  何が起きてるんだ、これ。  俺の身体の事なのに、全然わからない。   「しばらく休む?」  問われて俺は、無言で頷いた。  ソファーの上、俺は瀬名さんの膝を枕に寝転がる。  優しく頭を撫でながら、瀬名さんはワインを飲んでいた。  わずかに酒の匂いがしてくる。  でも、酔ってる感じしないな。  うち、母親はめちゃくちゃ酒強いけど、父親は弱くて、ワインなんか一杯で顔を真っ赤にしてる。  瀬名さん、結構飲んでるけど変化が見られない。酒、強いのかな。  そうして寝転がり、どれだけ時間が過ぎただろう。  だいぶ気持ちは落ち着いてきたけれど、頭の中はまだめちゃくちゃだった。 「俺、大丈夫、かな」  嗚咽交じりに呟くと、瀬名さんは笑って言った。 「駄目だから泣いたりしてるんでしょ? 自分では大丈夫なつもりでも、少しずつ少しずつ、心は傷ついていっているんじゃないかな」  心は傷ついている。  言われてみれば、心当たりはあり過ぎる。  でもそれを口にしようとすると涙が出てきてしまうから、結局俺は、瀬名さんに何も説明できずにいた。 「僕は事情を知らないけれど、想像はできるよ。今の状況は、君が望むものとは違うのかな」  俺の望みとは違う物。  だめだ。思考がまとまらない。 「ごめんね、喋り過ぎた。そのまま寝てていいよ」 「……え、でも……」 「何か気になるの?」  気になるに決まっている。  このままここで寝転がっているわけにもいかないし、それに、今日は土曜日だ。  時間になったら俺は……  喋ろうとすると、唇が震えてしまう。 「どうしたの、結城」  瀬名さんが、俺の顔を見降ろしてくる。  俺は首を振り、 「俺は、大丈夫です、から」  枯れた声で言い、俺はゆっくりと身体を起こす。  すると、瀬名さんが後ろから俺の身体を抱きしめてきた。引き止めるかのように。  やっぱり匂いがする。たぶん、香水だよな。今まで瀬名さんの匂いなんて気にしたことなかったけど。ちょっと甘い感じの匂いがする。 「こんなに震えているのに、どこに行くの」 「そ、それは……」    出た俺の声は震えていた。  落ち着いた、と思いたかったのに。まだ俺は駄目らしい。 「本当に落ち着いたなら、もう少し食べていきなよ、まだ、ケーキもあるし」  あぁそうだ、ケーキあるんだった。  今日は瀬名さんの誕生日のお祝いだって言うのに、俺、何してるんだろう?  それを思うと、自分が情けなくなってくる。   「ピザ、もう少し食べるんなら温めるけど?」 「いいえ、大丈夫です、すみません、ありがとうございます」  見れば、二枚のピザはどちらも一切れずつ残っているだけだ。意外と喰ってた。  サラダもポテトもほとんど残っていない。   「じゃあ、結城」  瀬名さんが、俺の身体から離れて行く。 「僕は片づけて、ケーキ持ってくるから待ってて」  立ち上がりながら言い、瀬名さんは俺に手を振った。  直径十五センチはあろうティラミスのホールケーキを、ふたりで四分の三食べ終えた頃。  時刻は二十時を過ぎていた。  あ、そうだ。  今日は、土曜日。  この後、千早の所に行かなければ。  俺はスマホを手に取り、ロックを解除した。  なぜだろう、スマホを持つ手が震えてしまう。  俺は今、千早に会いたいだろうか?  考えれば考えるほど、息が苦しくなってくる。  画面に表示される、千早とのトーク画面。  俺はそれを見つめたまま、動けなくなっていた。  千早。  友達。  セフレ。  ――身代わり。  言葉が頭の中をぐるぐると駆け巡る。  俺はソファーの上で膝を抱えて俯き、どうしようかと考えた。 「借りるよ」  声と共に、ひょい、と、瀬名さんが俺の手からスマホを抜き去っていく。  驚く間もなく、俺の隣に腰かけている瀬名さんはスマホをタッチして、それを耳にあててしまった。  ……え、この人、俺のスマホで何してるの……? 「やあ、こんばんは、秋谷千早君」  え、千早に電話かけてんの、この人?  俺の心臓が、激しく鼓動を繰り返している。  なんで、千早に電話、え? え?  手を伸ばす俺を片手で制し、瀬名さんは笑顔で言葉を続けた。  ……眼鏡の奥の目は、笑ってない。 「呼び捨てかあ。僕、とりあえず君よりは先輩なんだけどね……あはは、冷たい声だね。琳太郎だけど、今日と明日、僕が預かるよ」  預かるって何?  何決めてるのこの人は!  混乱する俺をよそに、瀬名さんはどんどん話を進めていってしまう。 「ずいぶんと機嫌の悪い声だねえ。理由はわかっているんじゃないの? ちょっと彼、発作起こしちゃってさ。そんな状態で原因の所に行かせられるわけないでしょ?」  原因、と、はっきり瀬名さんは言った。  千早が、俺のこの状態の原因……  わかってはいたはずなのに、いざ人の口からそれを聞くと手が震えてくる。 「無言、ってことはやっぱり君は自覚があるんだね。自分がやっている事……君は、自分が彼の心を壊していると自覚してる。だよね? 君は彼の優しさに甘えすぎだよ」  その話を横で聞いている俺は、気が気でなかった。  やばい、心が痛い。  身体も震えて何が何だか分からなくなってくる。 「あはは、気付いてた? 匂いだよ、彼はベータなのに、いつも君の匂いをさせていたから何でなのかと思って。そこから興味を持ったんだ。君が何もしていなければ、僕は彼にそこまで興味を持たなかったかもね」  いったい何を言っているんだこの人は。  だめだ、考えがまとまらない。 「今日は君の所に返さない。わかった?」  そこで瀬名さんは電話を切ったようで、スマホを俺に差し出してくる。 「はい。宣戦布告しちゃった」  無邪気に言う事かよ、それ。  宣戦布告って何?  何とかスマホを受け取り、カタカタと歯を鳴らし震えていると、瀬名さんが俺の身体を抱きしめてきた。 「だから今日は、ここにいて大丈夫だよ。君はベッドで寝ればいいし。僕はソファーで寝るから」  ここにいて大丈夫。  そう聞くと、少し気持ちが楽になる。  ……今、俺は千早に会えない。  それだけは確かなようだった。

ともだちにシェアしよう!