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第60話 車の中で

 その後も気持ちの乱高下は続いたものの、金曜日をなんとか乗り越え土曜日の朝を迎えた。  普通に過ごしているつもりでも、ふとした瞬間に千早のことを思い出す。  高校の時の事。  五月からの出来事。  千早の言葉。  俺は、どうしたいんだろ。  七月九日土曜日。  あれから一週間が過ぎた。  なんとなく気怠い朝。  天気はまた、雨だった。  カーテンを開けて外を見れば、灰色の雲が空全体を覆っている。  雨の中、歩いて駅行くの、怠いんだよなあ……  そう思いつつ、部屋を出て階段を降りていく。  洗面所で顔を洗い改めて自分の顔を見る。  うわ、クマできてる。やべえな、俺。  ちゃんと寝てるつもりなんだけどなぁ。昨日だって、二十三時には布団入ったし。  リビングに向かうと、母親がテレビを見ていた。  流れているのは何かのドラマのようだった。  何を見ているのか興味はないので、俺はリビングを素通りし、キッチンへと向かう。 「おはよー」  気だるく挨拶すると、母親はテレビから目を離さず挨拶を返してくる。 「ねえ琳太郎」 「何」  冷蔵庫を開け、麦茶の入った水筒を出す。  それをグラスに注いでいると、母親はこちらを見ずに言った。 「今日もバイト?」 「うん」 「送ってこうか、駅まで」 「は?」  母親がこんなこと言い出すのは珍しい。  ていうか、初めてじゃねーかな? 「どうしたんだよ、急に」 「なんか体調悪そうだから」 「別にいいよ」 「いいから送られなさいよ」  送られろ、と命令してくるのも珍しい。   「今日、お父さん出かけてるから、私も出かけたいからついでよついで」  俺の心配が先なのか、母親の出かけたい気持ちが先なのかはよく分かんねぇけど、そこまで言うならと俺は、バイト先近くまで送ってもらうことにした。  十一時半。  母親の軽自動車に乗せられ、俺はバイト先に向かう。 「琳太郎、最近様子変だったけど、何かあったの?」  車を運転しながら母親に言われ、俺は窓の外を見たまま黙り込んでしまう。  何かあったといえばあった。  でもこんなの、親に言えるわけがない。 「別に」  思春期みたいな事を言い、俺は口を閉ざす。 「何でも話しなさい、とは言うつもりは無いけど、自分のことは大事になさい? 自分を癒せるのは自分だけなんだから」  なんかそれ、最近よく言われる言葉だな。  俺は生返事をし、窓の外を見ていた。  雨の土曜日。  車の通りは多い気がする。   「癒しと言えばね、お母さん、最近バースものにハマってるんだけど」 「は?」  突然何を言いだすんだと思い、俺は母親へと顔を向けた。   「バースものよ、バースもの。オメガバースってほら、深夜ドラマやってるじゃない? それで見てるんだけど」  もしかして、さっき見てたドラマはそれか? 「オメガの子が運命の番だからって、アルファの子に捕まってね、閉じ込められちゃうのよ」  母親の言葉に、俺の心はぐらぐらと揺れる。  運命の番。  千早に言われた言葉が、耳の奥でこだまする。 『偽物の番』 『……俺は、お前がいいんだよ』  俺は、偽物じゃあ、ないんだよ、な? 「見てるときはほんと、胸がきゅんきゅんするんだけど、ふと思うのよ。オメガの子がされてるのって、立派にDVじゃないかなって」 「で、でも、それってドラマじゃん?」  無理矢理閉じ込める、とか聞くと犯罪の匂いしかしないけれど。  母親が見ているのはドラマだ。  現実じゃない。  ……現実に、俺は閉じ込められていたかもしれねえけど。 「まあ、そうなんだけどねえ。オメガの子もね、最初は嫌がってるんだけど、でもね、運命だからって逆らわなくなるのよ。置かれている状況を受け入れるっていうか……なんかね、何とかシンドロームって言うんでしょうね、あれ」 「何とかってなんだよ」  なるべく冷静に言うようにしているが、内心冷や汗だらだらだった。  母親がしているのはドラマの話だ。  現実じゃない。  俺は懸命に、自分にそう言い聞かせた。 「なんだっけ……ストックホルム、だっけ?」  ストックホルムシンドローム。  聞いたことはある。  誘拐とか、立てこもりなどで被害者が犯人に同調してってやつ。  防衛本能のひとつだって話だったような。  ……やべえ、気持ち悪くなってきた。  まるで、母親の話は俺の話のようで、嫌な感じがした。 「ストックホルムシンドローム。あれなのかしらねえって思うと、ちょっとしょんぼりしちゃうけど、見ちゃうのよねえ。気になって」 「な、なんでしょんぼりしてまで見るんだよ?」 「だから、気になるの」  ちょっとそのドラマの内容が気になってくるが、たぶん俺は見られないだろう。  ……きっと、自分と重ねてしまうから。 「っていうか、何でそんな話」 「今のお母さんの癒しだからよ」 「あ、そ、そうなんだ」 「お姉ちゃんたちもいないし、琳太郎も大学生になって家にほとんどいなくなったし。だからドラマ見て癒されてるのよ」  まあ、俺、今日まで母親が何見てるのかなんて知らなかったしな。  なんだろ、子供が手を離れて寂しいのか?  それともひとりの時間を謳歌してるんだろうか。  ……両方かも。   「アルファっていえば、貴方の友達の秋谷君て、アルファなんでしょ?」  その問いには、思わず心臓が止まりそうになる。  俺は目を見開き、戸惑い言った。 「な、な、な何で知って……」 「だって、有名だったから、高校で」  その状況で、なんで俺は知らなかったんだ?  さすがにどうかと思うぞ、俺。  「彼も、オメガにあんなことするのかしらねえ……だとしたら幻滅しちゃうなあ」  母親は、心底残念そうに呟く。 「何言ってんだよ、ドラマと混同するんじゃねえよ」  言いながら、俺は窓の外に視線を向ける。 「わかってるわよ、そんなこと。ちょっと思っただけよ。ねえ、琳太郎、今日は夕飯どうするの?」  急に現実の話題に引き戻され、俺はとっさに反応できなかった。  夕飯……どうしよう。   「え? えーと……あの、とりあえず作っといて。適当に温めるから」 「あ、じゃあ今日は帰って来るのね?」  そう言った母親の声は、ちょっと嬉しそうだった。  ストックホルムシンドローム。  バイトしながら、俺の頭の中をその言葉がぐるぐる回っていた。  ……俺の千早に対する気持ちって、自分を守るための偽りだったんだろうか?  千早は高校からの友達で、俺の世界には当たり前にいる存在だと思ってた。  でもその関係は、運命の番、という存在から狂い始めて……  それって偶然なんだろうか?  五月のあの日、藤の花に俺が見とれたとき、千早に会ったこと。そこに宮田が現れたこと。  偶然、何だろうけど起きて見ればそれって、必然だったんじゃねえかな。  あのときふたりが会わなければ、どうなってたんだろ?  そんなもしもを考えても、意味はねえか。  ふたりは俺の友達である以上、結局は俺、巻き込まれてるよなあ。  ってことはこの状況って、偶然じゃなくって必然なのかなあ。  運命の番。  そのつながりって、結局どうなったんだろ?  ふたりは結ばれる運命だったんだろ?  千早と、宮田と。  でも、宮田はそれを拒絶し、千早も運命から逃れようと足掻き、俺を選んだ。  千早が俺を選んだのって偶然なのか、必然なのか。  ……高校の時、そんなそぶりなかったよな。  普通の友達だったはず。   アルファだってこと俺だけ知らなかったっぽいの、ショックだけど。   『お前の前では、ただの人でいられたのに』  先週、千早はそんなことを言っていた。  ……だから、千早、俺には言わないでいたのかな。  アルファとかオメガとか、ベータとかそんなの抜きにして、俺と一緒にいたかったから。  もしかしたらずっと前から俺は、あいつの特別だったのか?  そして俺は……どうしたい?

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