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第3話

|諸岡茂《もろおかしげる》は愛車で夜の街を流していた。 「くそっ、またか」 一足違いでライバルに先を越され舌打ちをもらす。フロントガラスの向こうでは若い女が別のタクシーに乗っていた。 全くツイてない。今夜のアガリは少なそうだ。 遠のいていく|尾灯《テールランプ》を忌々しげに睨んだのち、バックミラーを覗いて帽子の傾きを直す。 鏡が映し出すのは貧相な中年男。ダッシュボードには運転手の氏名と顔写真を掲載したプレートが掲げられていた。 ミラーには赤い布袋に包まれた安全運転のお守りと、妻にもらったキーホルダーが揺れている。 現在諸岡がいるのは日本最大の歓楽街、新宿歌舞伎町。 窓の外には水商売の男女やキャッチセールスがうようよしていた。ケバいニューハーフが裏声で笑いさざめき、泥酔したサラリーマンが会社の不満をがなりたて、肩を組んだ学生たちが立て看板を蹴飛ばす。 タクシー運転手歴20年の諸岡にとってはもはや日常といえる光景。 ヘアスタイルやファッションの流行こそめまぐるしいが、それ自体は変わり映えしない喧騒に苛立ちと倦怠感すら覚える。 いっそ|河岸《かし》を変えてみるか?残り物には福があるというしもうすこし粘ってみるか……。 惰性でハンドルを回す諸岡の視線の先で、しなやかに手が挙がった。 「すいませーん」 反射的にブレーキを踏んで減速、スムーズな操作で路肩に寄せる。ワンタッチでロック解除、ドアを開く。 なめらかな動作で後部シートに乗り込んできたのは二十代半ばの青年。ホスト風のカジュアルなスーツを身に纏い、右手に純金の時計、左手に何故か数珠を巻いていた。 外から差し込むネオンが銀のメッシュがサイドに入った黒髪と端正な風貌を炙り出す。 第一印象は申し分ない色男。涼しげな切れ長の双眸と秀でた鼻梁が怜悧な知性を宿すも、そこに襟を崩したスーツが遊び心を足し、粋人っぽい軽薄さを引き立てる。一方で細く剃り整えた眉と|左右非対称《アシンメトリー》の口元に、油断ならないアクの強さが漂っていた。片耳にぶらさげたシルバーの棒状ピアスがおしゃれだ。 芸能人か?どこかで見た気がする。 既視感に襲われる諸岡をよそに、後部シートに寛いだ青年が微笑む。 「よかった。なかなか捕まらなくて困ってたんです」 「はは、お互い様です。私も今日はさっぱりで……」 「お互いツイてませんね」 「厄日でしょうかね。で、行き先はどちらですか」 「ちょっと遠いですが、埼玉県の|相生峠《あいおいとうげ》にお願いできますか」 目的地を聞いて凍り付く。 青年が不思議がる。 「どうされました?」 「何故相生峠へ?今からじゃ到着は深夜になりますよ」 努めて平静を装い、訊く。 「かまいません」 「すいませんが他をあたってください」 よそよそしい態度をとる諸岡に対し、青年はゆったり足を組み替える。 「何か問題でも?」 「だってあそこ……出るんでしょ?」 ハンドルを握る手がじっとり汗ばむ。バックミラーが青年の顔を切り取る。 「ご存じでしたか。なら話が早い」 青年が不敵にほくそえんでスマホを操作し、一本の動画を再生する。途端に音声が流れ出し、陽気な二人組が液晶に躍り出た。片方は濃紺の作務衣に下駄を合わせたパンチパーマののっぽ、片方はハイビスカス柄のアロハシャツにビーチサンダルを履いた坊主。 『視聴者の皆さんこんばんは!好きな物はせんべい汁な青森のイタコの末裔力石と』 『好きな物はヤシガニな沖縄のウタの末裔・喜屋武の漫才コンビ、サザンアイスDEATH!今回は最恐心霊スポット巡礼ということで、最近噂の埼玉県相生峠にやってきました!リッキー、ここってヤバいんだよな?』 『ヤバいヤバい。相生峠はもともとエグいカーブが多くて、走り屋のレース場だったんだよ。特に昭和60年から平成14年にかけて死亡事故が相次いだ。ドライブ中のアベックのっけた車がガードレールに突っ込んだっていうんだから悲惨だよな』 『さらに歴史を遡ると、相生峠がある山は死者に会える場所とも言われてたそうで……会い追い峠、だじゃれかよ~』 背景に沈む山の稜線。 闇よりなお黒いシルエットが不気味だ。 『地元の昔話じゃあ旦那と死に別れた嫁さんや母親を亡くした息子が、この峠で感動の再会をはたしたらしいぜ』 『特にヤバいのがあの電話ボックス、夜2時になると幽霊から電話がかかってくるんだ』 『マジ?』 青年がボリュームを上げる。 喜屋武が指さす先にはレトロな電話ボックスがたたずんでいた。 人工の灯は闇を圧するには足りず、かえって周囲の暗さを際立たせている。 場違いなものがそこに在る異物感が非日常を切り取っていた。 『肝試しにきた学生や暴走族が試した所、時間ちょうどに電話が鳴ったんだと。で、おそるおそる受話器をとってみたら……』 『とってみたら?』 力石が深呼吸でためにため、大仰に白目をひん剥く。 『恨めしげな女の声が「あなたじゃない」とさあああああ!』 『うわあああああ!』 動画で騒いでるのは諸岡も知ってる若手漫才コンビだ。共に霊能者の孫なのがウリらしく、よく心霊番組に呼ばれている。コントの面白さや喋りの上手さよりオーバーな顔芸がうけてるのは否定しがたい。 確かYouTubeに公式チャンネルを持ってるはずだ。自分が見ている動画もその一本だろうか。 諸岡の疑問を汲んだ青年が、液晶の照り返しを受け注釈を加える。 「最近増えてるんですよ、芸人上がりの心霊ユーチューバー。地上派より縛りが緩くて色々やれるのがいいんでしょうね、視聴者の反応もダイレクトに返ってくるし。霊感の有無はピンキリですけど」 「ああ、テレビの心霊特集減ったのは子どもの教育に悪いってクレーム殺到したからだとか言われてますね」 その手の話題に疎い諸岡でも、同系統のチャンネルが乱立している現状は察していた。 青年が淀みなく説明する。 「バズれば広告や案件で稼げますしね。とはいえ一般的なユーチューバーじゃ1回再生で0.05円から0.1円が標準値なんで、10万再生でも実入りは1万円のしょぼさです。しかも収益化の条件はチャンネル登録者数1000人以上、視聴時間4000時間以上なんでまずはそこをクリアするのが課題でしょうね」 「お詳しいですね」 「個人事業主なもので」 「社長さんだったのか。お若いのにすごい」 「地獄の沙汰も阿弥陀の光も金次第。僕の好きな言葉です」 「阿弥陀様も?」 「あんまり知られてませんが、アレは本来『地獄の沙汰は金次第、阿弥陀の光も金次第』って諺なんですよ。地獄の閻魔も極楽浄土の阿弥陀さまもお布施の額で忖度する、げにこの世は世知辛い」 やや引き気味に世辞を述べれば、情報商材のプロモーターでも務まりそうな笑顔が返ってきた。 それにしてもこの男、蘊蓄が好きだな。 手元の液晶に視線を戻す。 電話ボックスの後ろには鬱蒼とした山々が連なり、ロケ地が人里離れた峠だと仄めかしていた。周りには等間隔に並ぶ常夜灯とあちこちへこんだガードレールしか見当たらない。 『現在時刻は2時1分前、早速実験してみましょうか』 『どっちが行く?』 『やだよ怖ェもんお前が行け』 『やだよこないだも俺だったじゃん』 『ちんすこうおごっから、な?』 『じゃあじゃあ恨みっこなしじゃんけんで決めようぜ、じゃんけん……』 『BON!よっしゃ俺の勝ちィ』 力石が快哉を上げ、じゃんけんに負けた喜屋武を敬礼で送り出す。 『チクショー、絶対後出しじゃん』 うるさく纏わり付く羽虫を払い、スライドドアを開ける喜屋武。 『ちーす。入りますよー』 些か不謹慎ともとれる挨拶が空疎に響く。 もちろん返事はなく、薄ら寒い静寂が居座っていた。中にあるのは何の変哲もない公衆電話、少し前まで町中で見かけたタイプ。スマホが普及してからすっかり減ってしまった。 黒いパネルを嵌めこんだ緑の筐体は、前衛的なオブジェさながら沈黙している。 落ち着かない素振りできょろきょろする喜屋武。その不意を突いて無機質なベルが響き渡った。 喜屋武が驚愕に目を剥き、電話ボックスの外で待機する力石に指示を仰ぐ。力石がハンドサインで「とれ」と促す。諸岡は生唾を飲んで動画に見入る。 『ンだよこれ。聞いてねえぞ、ドッキリか?』 どうやら相方の悪ふざけを疑っているらしい。素に違いない粗暴な口調で吐き捨て、透明なガラスの向こうの力石を睨む。 ジリリリリリ、ジリリリリリ。 けたたましいベルが鳴り響く中、蛾が電話ボックスにバツンバツン体当たりを繰り返す。 撮れ高が欲しい力石が再三のハンドサインで圧をかける。 ジリリリリリリリリリリリリリリリ。 番組の進行を気にした喜屋武が覚悟を決め、フックに掛かった受話器をとる。 『もしもし。あ、あんた誰だ。いたずら電話ならやめてくれよ、心臓に悪いぜ』 半笑いで虚勢を張るも手の震えはごまかせない。これがお芝居なら大した演技力だ、主役は無理でも日本アカデミー賞の助演賞位は狙える。 しかし次に待ち受けていたのは、あきれ半分感心半分の諸岡の予想を裏切る展開だ。 喜屋武が襟に付けた小型マイクがノイズを増幅する。受話器からもれてくるのは荒い息遣い……おそらくは若い女。 『あなたじゃない……』 『ッ!』 ハッキリした声が届いた。 喜屋武の手が汗で滑り、受話器を取り落とす。螺旋状のコードと繋がった受話器が不規則に揺れる。逆さまになったそこからは、陰鬱な声がエコーしていた。 『じゃない……じゃない……じゃない』 『うわああああああああああ!あ、開けてくれえええええ!』 喜屋武がヒステリックにドアを叩く。 『くそ開かねえ閉じ込められた、今の声なんなんだよ勘弁してくれよ!?』 『落ち着け、今出してやる!』 力石が漸くドアを開ける。ツーツーツー、回線が途切れた受話器から単調な音が鳴り響く。 その後はさんざんだった。力石と喜屋武は車に乗り込んで下山し、げっそりした顔でリポートをまとめる。 『いや~びっくりしました。峠の電話ボックスの噂、デマじゃなかったんですね。アレ絶対死人ですよ、生きてる人間の声帯から出る声じゃなかったですもん』 『なんで断言できんの?』 『ウタの孫だし』 『ユーレイだとしたら誰よ。峠で事故ったレディース?アベックの片割れ?』 『あなたじゃないって駄目だしされたんだが』 『イケメン以外お断りなんじゃね?』 『とにかく二度とごめんっすわあそこ行くの、視聴者のみんなもまねしちゃだめだぞ』 喜屋武と力石がドアップで警告を出し、やや強引に話をまとめた。 「一週間前にアップされて再生回数80万を突破してます」 「悪質なやらせですね。お客さんも見物に行かれるんですか?」 「友人と待ち合わせしてるんです」 「相生峠で夜2時に?ははあ、合流後に肝試ししようって魂胆ですか」 「そうとってもらってもかまいません」 「どちらにせよごめんですね。自慢じゃないが怖い話はからっきしで、心霊スポットの類には近寄りたくないんですよ。変なもん拾って帰っちゃったらやでしょ」 「タクシー運転手さんには怪談が付き物だとうかがいましたが」 「偏見です。そりゃ同業者の中には怖い話が好きで得意なヤツもいますし、実際ユーレイを乗せたとかほざく手合いもいますがね、全体から見りゃ少数派ですよ!少なくとも私は関わりたくない、お客さんを送ったあと一人で帰らなきゃいけない身にもなってくださいよ」 憤懣やるかたなく言いきる諸岡。 白手袋をはめた手でハンドルをトントン叩き、哀れっぽく訴える。 なんてことはない、この男も悪趣味な野次馬の一人じゃないか。心霊ユーチューバーの実況に影響されて現場に足を運ぼうなんて、しかもそれがあの相生峠なんて迷惑千万。同僚の中には客に怪談を聞かせたがる物好きもいるが、彼に言わせればとんでもない話だ。 諸岡の抵抗ぶりを観察した青年が、スーツの懐から革の札入れをチラ見せして提案する。 「報酬は弾みます」 「賄賂ですか」 「買収されてみません?」 断ろうとして思い止まったのは、土壇場で札入れの分厚さに気付いたから。 「会社の規則でそういうのはもらえないことになってるんです」 「言わなきゃバレませんて。深夜の長距離料金にプラスするんだから結構な棚ぼたですよ」 札束が見えた。 諸岡が生唾を飲む。 「無理を承知でご相談です。今から他のタクシーさがすの骨折りなんで、なんとかお願いできませんかね。これ以上友人待たすのも心苦しいですし、アイツビビリだから今頃泡ふいて卒倒してるかも。外に寝かせてたら風邪ひいちゃいます。西部劇の無法者みたいな珍走団に引き回されてるかもしれません」 あくまで丁寧な物腰で交渉する青年。余程駆け引きに慣れているようだ。 「わからない人ですね。断ったでしょ、下りてください。粘るなら警察に」 「十万出します」 「は?」 「いかがですか」 心に逡巡が生まれる。 認めるのは癪だが、この青年は間違いなく金を持っている。今夜はあんまり拾えてないし、逃がすのは惜しい太客だ。それでなくても早急に金が欲しい事情がある。 さらに一声、青年が後押しする。 「片道だけ、送ってってくれるだけでいいです」 「……置いて帰っていいんですか」 「即。僕は友人の車に乗って帰りますんで、あなたは長居せずUターンなさってください。帰りの車中で好きな音楽をガンガン鳴らせば怖さも紛れるのでは?」 眉間に皺を刻み呻吟する。 早い話がただの肝試しだ、それ以上でも以下でもない。優雅なご身分だなと金持ちの道楽を羨む気持ちはあるものの、片道十万の提示額は魅力的すぎた。 戻るまで独りで待てと言われたら断固拒否したが、下ろしてすぐ車を出せば……しかし相生峠は……せめて他の場所なら……。 青年が一万円を指に挟んで抜き取り、企み顔で口上を述べる。 「細工は流流、仕上げを御覧じろ」 ぴんと伸ばした紙幣を膝に置いて折り畳む。瞬く間に首が生えて優美な翼が開く。 かと思えば羽を持って裏返し、唇を窄めて息を吹き込む。 睫毛を伏せてツッと唇を離せば、今にも飛翔しそうな存在感を携え、立体的に膨らんだ折り鶴が完成する。 「あげます」 「で、でも」 「貴重なお時間をいただいてしまったお詫びです。諸岡さんがダメだとおっしゃるなら無理強いはしません、残念ですがご縁がなかったと諦めます。お達者で」 青年がはにかんで折り鶴を渡す。贅沢な鶴。 「待ってください!」 ドアから下りかけた背中を慌てて制す。 振り返る青年に対し、折り鶴をちゃっかりポケットにしまった諸岡が渋々申し出た。 「……埼玉県の相生峠ですね、乗ってください」 「よろしいんですか?」 「送ってくだけなら」 「恩に着ます、親切な運転手さんに出会えて今夜は本当にツイてる」 腰掛けるのを待ちアクセルを踏む。タクシーが排気ガスを撒いて滑り出し、繁華街のネオンと喧騒が遠のいていく。 妙な成り行きになった。ハンドルを右に左に回し、市街地からインターチェンジを経て高速道路に移る間も、バックミラーを介して乗客の動向を窺うのをやめられない。 黙っているのも気詰まりなので適当に話題を振ってみた。 先日議会で可決され物議を醸した法案に芸能ネタ、明日の天気の話に動物園の赤ちゃんパンダ誕生ニュース。 青年はどれもに卒なくこたえる。 「いや~驚きましたね、まさかあの企業が倒産するなんて。私が若い時は百年先も安泰っていわれてたのに」 「早めに株売っといてよかったです、間一髪でした」 「株をやられるんですか?」 「片手間にね。小遣い稼ぎにはもってこいです」 「さすが社長さんだ、先見の明がある。参考までにおうかがいしますが、何歳から始めました?」 「中1」 「中学生で株転がしが趣味とは渋いなあ」 「少々込み入った事情がありまして、早く独立資金を貯めたかったんですよ。当時はスマホと首っぴきで為替レートのチェックが日課でした」 案外苦労人なのだろうか。言われてみれば若いのに妙に達観してるというか、老成した雰囲気が漂っている。 特に印象的なのは目で、二十年そこらしか生きてない若造とは思えない深い色をしていた。 「運転手さんの学生時代はどうでしたか?」 「場末の雀荘に入り浸るか日がな一日女のケツ追いかけてましたよ。煙たかったな~あそこ。ただでさえ安っぽい壁紙がヤニで不潔に黄ばんで……負け犬が灰皿投げてくんのにうんざりしました」 「ギャンブルがお好きだったんですね。今も?」 「恥ずかしながら下手の横好きで借金まみれです。沸点が低いのか、競馬もパチンコもすぐ熱くなっちまうんですよね。今日はここまでが出来ねえ性分でして」 砕けた口調で自嘲するも、郵便受けに詰まった督促状の束を思い出して気が滅入る。この放蕩癖が祟って実家を勘当されたのだ。 「全然モテなかったんですがね、一応カノジョがいたんです。親父の車をパクって色んな場所でデートしました。あっ今のはオフレコで頼みますよ、タクシー運転手に無免の前科なんて笑えませんから」 「共犯に引き込もうって魂胆ですか。了解しました、僕とあなたの秘密ですね」 意外と話がわかるじゃないか。 思い出話を笑い話に仕立て、雰囲気が和んだのを見計らいメーターを確認する。ちょうど埼玉県に入った所だ。障壁が沿道に続いてるため景色は見えない。 目の前にはセンターラインに区切られた平坦な二車線が伸びていた。単調な運転に眠気が増してあくびを噛み殺す。 メールを打ち終えたらしい青年が唐突に口を開く。 「ハイウェイ・ヒプノーシスをご存じですか」 「ハイウェ……なんですって?」 「高速道路催眠現象ともいって、運転中に眠気に襲われ幻覚や幻聴を見聞きする事をさします。高速道路ってほら、カーブが少なくて信号機がないし、一定方向にずーっと走ってるでしょ?それが眠気を誘発して注意力が低下するんです」 「へえ。天気がよくて見晴らしのいい道路で自殺同然の事故が起きるのはなんでか、ずっと不思議でした。言われてみりゃ納得だ」 「幽霊の目撃談の何割かもこれが原因だと思うんですよね」 「お客さんは物知りですね」 「職業病です」 細身のスーツを着こなす若者が人さし指を立てる。 「ちなみにヒプノーシスの由来はギリシャ神話の眠りを司る神、ヒュプノス。兄弟には死を司るタナトスやモロス、夢を司るオネイロスがいます。これらの区別は曖昧で、しばしばセンターラインを越境します」 なるほど、意味がわからない。 夢と聞いて思い出すのは例の悪夢。二十年以上経った現在ではさすがに見る頻度が減ったが、当時は毎晩のようにうなされていた。 瞼の裏に過ぎる懐かしい面影。耳に甦る声。 『お願い、別れるなんて言わないで』 アイツが夢に出て来なくなったのは、歳月の経過に比例して罪悪感がすり減ったせいか? 疎らに走る車やトラックとすれ違いざま、白いライトが横顔を照らす。 深遠な眼差しが車内に立ち戻り、運転席の背凭れに刺さる。 「先ほど面白いことをおっしゃいましたね」 「何でしょうか」 「同業者には実際心霊体験をなされた方も多いとか」 「ああ……」 「客待ち中に目撃したり、あるいは乗せたり?」 「お客さんも言った通り、この仕事には真偽が不確かな怪談が付き物ですからね」 「タクシー運転手は特殊な職業ですから、幽霊と相性が良いんでしょうね」 「どういう意味ですか」 この手の話題は苦手だと最初に断ったのに、わざわざ振ってくるのは嫌がらせか? とはいえ好奇心をそそられたのも事実。 思わず聞き返す諸岡に、青年が足を組み替えて種を明かす。 「あなた方は毎日目を皿にして知らない人をさがしてるじゃないですか」 「そりゃそれが仕事ですからね。タクシー待ちの人を家なり職場なりに送り届けるのが我々の務めです」 「だから自然と目が行くんです、人ごみにまざりこんだ異物に」 片耳のピアスを弾く。張り詰めた金属の旋律。 「……なるほど。そういうときはどうするのが賢いんでしょうか」 「こっちが気付いた事に気付かれたらおしまいです。知らんぷりするしかない」 「事故現場で手を合わせたり事件の記事に同情するのもよくないって言いますもんね」 「お人好しは付け込まれるんです。友人も苦労してます」 「ご友人は霊感がおありなんですか」 「日常的に憑かれてますね」 「そんな厄介な体質のご友人をひとりで待たせといて大丈夫ですか?」 「彼は僕のパシリ、もとい助手なので。先にやっといてもらいたいことがあったんです」 「下見?」 「当たらずとも遠からず」 十分後、高速道路を下りた。 農閑期の田畑の周囲には人家や街灯が殆どない。田舎の夜は都会に比べ湿度が高い気がする。 二人を乗せたタクシーが相生峠を上り始める。右手には白いガードレールが延々続く。 退屈そうに頬杖付いて青年が呟く。 「こんな所に道路を敷くのは重労働だったでしょうね」 「昔は徒歩で上り下りしてたっていうんだから、大変だったと思います」 「静かな夜だ。走り屋もいない」 「野次馬もいない事を祈りますよ」 引き返す最後のチャンス。 しかし諸岡はそれをせず、迷いを蹴散らしアクセルを踏む。 「そういえばお客さん、関西の人ですか?」 気になっていたことを序でに聞く。 「何故?」 「これでもタクシー運転手歴20年のベテランですよ?色んな地方出身の方を乗せてきたんでピンときました。イントネーションがね、ちょっと違うなって」 とはいえ巧妙に隠してるので自分でなければ見抜けなかったはず。 流暢な標準語を喋っていた青年が、決まり悪げに咳払いする。 「出身は大阪です」 「やっぱり。こちらへは仕事で?」 「いえ、子どもの時に」 「子どもは順応性高いっていいますけど、大人になっても訛りがぬけないもんなんですね」 「マウントとんなや東京もんが」 空耳? 首をねじって振り返れば、完璧なスマイルで封殺された。 「安全運転でお願いしますよ。夜道で事故は怖いですから」 「死角が多いですもんね、この道は」 「以前きたことがあるんですか」 「何故?」 「そんな口ぶりでしたから」 「気のせいですよ」 「てっきり何かがあってトラウマになってるのかと」 「相生峠は曰く付きですから、タクシー運転手はみんな避けたがるんです」 「幽霊から電話がきたり?でも待ってください、それって外に出て電話ボックスに入んなきゃわかりませんよね。他にも何か起きるんですか」 「まあ色々と……崖下から呻き声が聞こえたり下半身が透けた女に手招きされたり。地元で有名な峠越えの難所です」 「ああ、それなら聞いたことあります。相生峠がある山は、昔から死者と生者が交わる場所とされてきたとか。故に会い負い峠……亡者をおんぶして下りる山と囁かれた」 背筋に悪寒が走る。 「芸人の話と違うじゃないですか」 「諸岡さんはどっちが本当だと思いますか」 「なんで名前を知って……」 「プレートを見たんです、諸岡茂さん。珍しいお名前だ」 青年が先回りする。手袋が手汗で蒸れる。 漸く五合目に至り、あと半分と虚脱する安堵感と、まだ半分と萎える疲労感を同時に覚える。 「ちょっと調べてみたんですが、相生峠で事故が多発してるのは本当みたいですね。大半は暴走族絡み」 「でしょうね。ここは格好のレースコースですから」 「珍しいのが平成9年、今を遡ること25年前に起きた事故……いや、事件かな」 心臓が強く跳ねた。 「相生峠の五合目……ちょうどこのあたりで、若い女性が長距離トラックに轢かれたんです。居眠り運転が原因とされましたが、なんだって夜遅くこんな所を歩いてたんでしょうね」 「さあ……」 「そもそも彼女は一人できたんでしょうか。徒歩で?夜に?現場の状況は極めて不自然で不可解だ。引っかかるのは下りてきた事、歩いて登ったとは考えにくい。彼女を上まで運んだ誰かがいるはず」 『お願い考え直して』 『おいてかないで茂』 必死に縋り付く手。懸命な懇願。 幾たびアクセルを踏みスピードを上げても振り切れない過去の悪夢。 刹那、フロントガラスに人影が立ち塞がる。 ヘッドライトが照らすのは赤いワンピースを着た女― 「危ない!」 「!?ッ」 運転席を掴んで叫ぶ青年に応じ、急ブレーキを踏んでハンドルを切る。 「い、今轢いた……」 ハンドルに突っ伏し肩で息する諸岡を、青年が冷静に諭す。 「誰もおらんよ」 信じられない想いで顔を上げる。 窓の外にはカーブした道路があるだけ、女の姿はどこにもない。 幻覚。 罪悪感が生んだ? 「も、もう限界だ。ここからは一人でいけるだろ、下りてくれ」 「峠のてっぺんまで送り届けるて約束やんけ」 「アンタも見たろ、そこに突っ立てた赤いワンピースの女!瞬きもせずこっちをじっと見てた!」 「俺が危ない言うたんはアンタがボーッとしとったから。女なんて見てへん」 「そんな……」 「投げっぱなしは感心せん。しまいまでお仕事せなな」 ならばと力ずくで引きずりだそうとする。 できない。 運転席に腕を回した青年が、片手のひらにのせた折り鶴を吹き飛ばしてきたから。 「ダチが待っとんねん、すっぽかすようなイケズできん。なあ頼むで運ちゃん、てっぺんまで連れてってくれはったらおまけしたる」 標準語をかなぐり捨てた青年の囁きに従い、諸岡の膝に折り鶴が舞い降りる。 何故蹴り出さないのか? クレームが怖くて? 否、怖いのはこの男だ。それに…… 「よお考えてみ、ここで俺を蹴り出したらあんさんひとりぼっちやで?ひとりで事故らず帰れるん?今かて警告せなガードレール突っ込んどったんに」 諸岡は小心者だ。相生峠を一人で下りれるか聞かれたら否と答えるしかない。 たとえ一人になるのが先送りされるだけだとしても、再び赤いワンピースの女が出てきたら…… 帰路で幽霊と出くわす可能性に慄き、渋々運転を再開する。 六合目、七合目、八合目……もうすぐ頂上だ。ガードレールの向こうは深い闇を湛えていた。 頼む早く着いてくれ一分一秒でも早く終わってくれ。心の中で狂おしく念じる。よそ見をするのが怖く、血走った目でフロントガラスに凝視を注ぐ。 徐々にフロントガラスにせり上がってくる頂上の広場。 ゴールを目前とした安堵と喜び、絶大な解放感が胸の内に湧き上がる。 「着きました」 「ご苦労さん」 事務的な報告を鷹揚に労い、窓の外へ視線を放る青年。広場にはガラス張りの柩を連想させる電話ボックスが建っていた。例の動画を思い出して汗が冷える。 「乗車賃はしっかり頂きますよ」 「わかっとる」 ロック解除の音がやけに大きく響く。青年が腰を浮かせてドアを開け、札入れを開き…… 「おっと、手ェが滑った」 アスファルトの地面に紙幣をばらまいた。 「なっ……」 絶句する諸岡をよそに広場に降り立ち、電話ボックスの逆光を背負って宣言。 「柿沼加奈子の香典、拾うの手伝うてくれへん?」 青年の表情は闇に沈んで見えない。 ジリリリリ、ジリリリリ。けたたましく鳴り響く電話の音。出所は電話ボックス。 無機質な光に包まれた棺の中で、蛍光緑の筐体が警報を鳴らしている。 諸岡の反応は劇的だ。即座にアクセルを踏んで急発進、Uターンを企む。 ぎゃりぎゃり、タイヤが凄まじい音をたてアスファルトを削る。猛スピードで旋回した車の行く手を赤いワンピースの女が阻む。 「うわああああっ!?」 絶叫を上げた。 『行かないで茂』『どうやって帰ったらいいの』……過去から甦る呼び声を振り切りロック解除、もんどりうって転げ落ちる。ジリリリリリリリリ、鳴り続けるベル。 「お、俺のせいじゃねえ!お前が貸し渋るからちょっとこらしめてやろうとしただけだ、アレは事故だったんだ!」 這って逃げる諸岡を見下ろし、電話ボックスのスライドドアを開け、受話器を取る。 「もしもし」 『あなたじゃない』 「今代わったる」 片手でドアを押さえ虚空に受話器を翳す。諸岡は尻であとずさり泣き喚く。 「お、お前はツイてなかったんだ加奈子!大体俺が何の罪にあたるっていうんだ、保護責任者遺棄かよ小さいガキでも認知症の年寄りでもねえのに25年もたちゃ時効だろいい加減許してくれよ!」 加奈子。 学生時代に一時期交際していた彼女。せびるのに都合が良い女。 25年前、ドライブデート中に喧嘩になった。 「もうお金は貸せない」とごねる加奈子に腹を立てた諸岡は、彼女を峠の頂上に置き去りにして―…… 「記事読んだわ。ハイヒール折れとったんやて?」 「知らねえ!関係ねえ!ただ置いて帰っただけじゃねえか、途中でトラックに轢かれるって知ってたら」 「男ふたり車ん乗ってても心細い峠の夜道を、若い女が歩いて帰った。当時はケイタイあらへんし、家族や友達に迎えにきても言えん。デートDV彼氏を庇ったんか?親父の車を勝手に使たのバレたら大目玉さかいに」 そうだ、諸岡は知っていた。 加奈子はハイヒールを履いていた。女の脚で下りるには四時間かかる。知った上で置き去りにした。加奈子がトラックに轢かれた事だけが誤算だった。 死角の多い峠道で起きた不幸な事故…… 「だって25年だぞ!」 「被害者に時効はないんやで」 青年が受話器をお手玉する。 「そんで多分、オッサンは裁かれんだけの人殺しや。未必の故意は推定有罪」 ジリリリリリリリ『茂』ジリリリリリリリ『そこにいるのね』ジリリリリ『寂しかった』リリリリリリリリリリリ『ずっと待ってた』リリリリリリ『やっと来てくれた』 「あ……」 目の前の青年の正体を遅まきながら理解する。以前雑誌で見かけた霊能者だ。 名前は確か…… 「後悔してるんだ本当に!加奈子には酷い仕打ちをした、なあ頼む信じてくれ朝になりゃ迎えに行く気だったんだ!」 吹きかけられた排気ガスに咳き込み虚しく手を伸ばす加奈子。裏切りのショックと絶望に暮れゆく顔。 「25年知らぬ存ぜぬ通したくせに?ホンマに反省しとったら後ろめたくて来れへんやろ」 突風が一面に散らばった万札を巻き上げる。制服の胸ポケットから折り鶴が零れ、羽ばたく。 頭の片隅で予感していた。 動画で再生された電話の声は加奈子によく似ていた。別人であってくれと祈り車を飛ばした。借金で首が回らなかった。金が欲しい。全部言い訳だ。 「うああああああわああああああああああ!」 パニックに駆り立てられ青年を突き飛ばし、ひったくった受話器を振りかぶり…… 通話が途切れた。 「茂」 背後に迫る気配。 耳たぶに絡む囁き。 背中に衝撃が爆ぜ、気付けば電話ボックスに蹴り込まれていた。ドアを押さえた青年がにっこり引導を渡す。 「ごゆっくり」 「待」 そしてドアは閉ざされた。 あっさり踵を返す茶倉の前で、赤いワンピースの女が地べたに蹲り、せっせと万札をかき集めていた。 否、女ではない。男である。 「ひいふうみい……しめて十万、耳揃えて回収したぞ」 「おーきに」 唾で湿した指で紙幣を弾き、開けっ放しのタクシードアの奥に投げ込む。 「無賃乗車はあかんもんな」 広場の隅にとめたアウディの助手席にて、理一はカツラを脱ぐ。 「あ~~しんど」 「女装で突っ立っとっただけやん」 「本気で言ってんのかよ、人払い大変だったんだぞ?例の動画のせいで肝試しに来る馬鹿大勢いたし、カツラは蒸れるしスースーするし……もー脱いでいいか」 「おもろいから帰るまでそのまま」 「殴んぞグーで」 「わかったわかった」 電話ボックスが激しくガタ付く。シャツに首をくぐらせた理一が声を落とす。 「朝まで放置コース?」 「気がすむまでな」 茶倉がうなじに手を添えて首を回す。 事の発端は一週間前、茶倉練が代表を務めるTSSに電話がきた。依頼人は柿沼俊樹……25年前に相生峠で事故死した、柿沼加奈子の父親だ。 たまたまサザンアイスの動画を視聴していた彼は、電話から漏れてきたのが亡き娘の声だと確信し、加奈子の無念を晴らしてほしいと茶倉に頼んだのである。 ところが、加奈子が呪っていたのは直接の加害者であるトラック運転手ではなかった。 老人ホームに入居中の父親に代わり、助手の理一を伴い相生峠を訪れた茶倉は、幽霊から本心を聞いて諸岡をはめたのだった。 「娘の無念を晴らしてほしいて依頼された。だからそうした。文句あるか」 「今の法律じゃ罰せらんねえのが悔しいぜ」 諸岡が手を下した訳じゃないが、結果的には殺人と一緒だ。不満げな理一を茶倉が笑って宥める。 「自分で復讐できるやん」 「朝まで正気たもってられるか見ものやで」と嘯く茶倉をまじまじ見詰め、性格の悪さに恐れ入る。 「助けてくれえっ!」 バンバン電話ボックスを叩く諸岡にほんの少しだけ同情し、理一は肩を竦めた。 「……いっこ懸念があるんだけど」 「なんや」 「俺を見た連中が『出たー』とか『噂はマジだったんだやべー』とか言いながら逃げてった訳だが、これって」 「幽霊と勘違いされたな」 「知ってて赤いワンピース着せたな」 「遺族に当時の服装聞いて、使える思た」 「オッサンにプレッシャーかける為に?」 「細工は流々仕上げを御覧じろ」 アクセルを踏んで車を出す。首をねじって振り向く理一の視線の先、リアガラスを隔てた電話ボックスが遠のいていく。 顔面蒼白の諸岡におぶさっているのは赤いワンピースの…… シートベルトを締めて前を向く。 「一歩間違えりゃ轢かれるとこだった」 「労災下りるから安心せい」 「そーゆー問題じゃねえ」 「お前なら体張って止めてくれるて信じとったで」 「よっくいうぜ。途中で下ろされたりUターンされたらどうする気だった」 「ないない。財布を見る目でわかる」 茶倉は常に自信満々だ。 だからこそ茶倉練ともいえる。 「興信所に頼んで経済状況調べ上げたし、絶対食い付くて踏んどった。ギャンブルで負け込んでたらしい」 「人間簡単にゃ変わんねえな」 「死んでもたら一層なんも変わらん」 「その心は」 片耳のピアスがキィンと鳴る。 「娑婆におるうちが華」 「かもな」 峠を下りる途中、ガードレールの根元を見て理一が呟く。 「いけね、花忘れた」 「は?」 「献花。加奈子に手向ける……」 「せやから付け込まれんねん、飛蚊症とコバエの区別も付かんダボが」 「両目とも1.5だぞ」 「視力で儲けがでるかい、悔しかったら再生数一回でも稼いでこい」 事故現場にあたる五合目にさしかかるや、静かに合掌する理一。 「この道、夜に一人で帰んの心細いだろうな」 「せやな」 「お前がいてよかった」 「ぬかせ」 ため息を吐き、うんざりした様子でフロントガラスを見詰める。 「持ち腐れる花はいらん。俺なら万札で折った千羽鶴たむけてほしいわ」 後日、理一に追い払われた若者たちが「赤いワンピースの女に脅かされた」と触れ回ったことで相生峠の肝試しブームはさらに過熱するのだが…… それはまた別の話。 諸岡はタクシー運転手を辞めたそうだ。

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