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第4話 ここはどこ?

 初めて入った海の中は苦しくて大変だった。口からはゴボゴボと泡が出て、渦の中に入ってしまった僕の体はグルグルグルグル回り続けている。泳いだことがないから、どうすれば海の上に行けるのかもわからない。  太くて長いクラーケンの脚には何度もぶつかるし、まるでグルグルかき混ぜられている大鍋の中に入ったみたいだ。グルグル目が回って息も苦しい。口からゴボゴボ出ていた泡も段々出なくなって、最後にゴポッと吐き出してからは何も出なくなった。 (僕、このまま死んじゃうのかな……)  そんなことを思いながら、かき混ぜられる海の中でグルグル回り続けた。 ・ ・ ・ (……いい匂いがする)  これは、こんがり焼けたパンの匂いだ。でも、神様の塔に来てからは焼いたパンなんて見たことがない。ネネが作ってくれるのは棒の形をしたパンっぽいのだけだったし、あの棒もこんな匂いはしなかった。  きゅるるるる。  パンの匂いを嗅いだからか、思いきりお腹が鳴ってしまった。そういえば、とてもお腹が空いている。ネネが作ってくれるご飯を食べ始めてからはこんなふうにお腹が空くことなんてなかったから、すごく久しぶりに感じる空腹だ。 「……おなか……すいた、なぁ……」  おいしそうな匂いのパンが食べたいなぁ。そんなことを思っていたら、また「おなかすいた」って声が出た。 「あはは、寝言がそれって食いしん坊なのかな?」  あれ? ネネじゃない声が聞こえる。 「それとも、そろそろお目覚めかな」  誰だろう? 声がしたほうに頭を向けながら、ゆっくり目を開けた。 「…………あれ?」 「おはよう」 「おはよう……?」  話しかけられて、パチパチ瞬きをする。そうしてもう一度しっかり目を開いたら、知らない誰かの顔が見えた。 「とりあえず、朝ご飯食べる?」 「……食べる」  朝ご飯と聞いて、僕のお腹はまた「きゅるるる」と大きな音を鳴らした。  目の前に置かれた焼き立てフワフワのパンに、たっぷりのバターを塗ってムシャムシャ食べる。途中でホカホカのココアを飲んで、ついでにパンの隣にあったチーズもポンと口に入れた。  三つあった大きなパンはあっという間になくなった。そうしたら「どうぞ」と新しいパンが出てきた。 「これ、」 「おかわり、食べるでしょ?」  パンを見て、知らない誰かを見て、またパンを見る。本当に食べてもいいんだろうか。四個目なんてさすがに食べ過ぎな気がする。 「遠慮せずに、どうぞ」 「ありがとう」  お礼を言ってから、またたっぷりのバターを塗ってパクリと食べた。 「そうだ、名前まだ言ってなかったね。俺はモクレン。きみは?」  口いっぱいに頬張っていたパンを急いで飲み込んでから「まそら」と答えた。 「まそらか。うん、空色の髪と水色の目にぴったりの名前だ」 「そうかな」 「真紅の角も素敵だね」  変わった奴だなと思った。だって、こんなに小さな角が「素敵だね」なんて言われるはずがない。口に出さなくても、大体は眉をひそめて「本当に角持ちか?」って顔をする。  それなのに、目の前にいる知らない誰か……じゃなかった。もくれんは、ニコニコした笑顔で僕を見ていた。 (もくれんって何だろう?)  黒髪は短くて目も真っ黒、頭に角がないから角持ちじゃない。背中に羽は見えないし、羽を隠すための服にも見えないから、たぶん羽持ちでもない。どこからどう見ても半獣人じゃないし、二足歩行の獣人でもない。僕より背はずっと大きいけど、ティタンのお兄さんやスルトのおじさんほど大きくもない。  全体的にツルッとしていて、初めて見る姿だ。 「まそらは、どうして海にいたの?」 「海……? あ!」  そうだ。僕は種をくれる誰かを探しに行こうと舟に乗って、クラーケンが現れたせいで海に落っこちたんだった。 「海の向こうに行こうとしてたんだけど、途中でクラーケンが出てきて、それで海に落っこちたんだ」 「そういえば、沖のほうにクラーケンが棲みついたみたいだね。ってことは、運よく岸に流れ着いたってことか」 「流れ着いた?」 「そう。二日前の朝、海岸を散歩してたらきみが倒れていたんだ。周りには誰もいなかったし、それで連れて来たんだよ」 (うわぁ、僕、拾われたのかぁ)  旅の途中で捨てられそうになったことはあったけど、拾われたのは初めてだ。 「目が覚めてくれてよかった」 「あの、ありがとう」 「どういたしまして」  ニコッと笑ったもくれんは、いままで出会った誰よりも優しい顔をしていた。 「それで、ここってどこ? 海の向こう側?」 「きみがどこから来たかわからないから向こう側かはわからないけど、たぶん、そこそこ遠いんじゃないかな」 「そっか」  海の向こう側じゃなくても遠い場所なら、きっと僕に種をくれる誰かを見つけることができるはず。違う陸には違う誰かがたくさんいるはずだから、きっと見つかる。  そんなことを考えながら、残りのパンにパクッと噛みついたところで「あれ?」と思った。  もくれんの後ろ側の壁に見たことがあるへこみがある。モグモグ食べながらぐるりと部屋を見回すと、どこもかしこも僕がこの前までいた神様の塔にそっくりだった。  あの塔の部屋よりも広いけど、壁には真っ黒で大きな板がくっついているし床には黒や白の紐も見える。それに座っている椅子も目の前のテーブルも塔にあった物と同じだった。パンを飲み込んで上を見たら、天井に見慣れたドームまである。 「もしかして、ここも神様の塔?」 「神様の塔?」 「あれ? 違った?」  僕の質問に、もくれんが首をコテンと傾げている。そうしてしばらく何か考えたあと「そうか」って手をポンと叩いた。 「なるほど、きみたちは“神様の塔”って呼んでいるのか」  今度は拳を口に当てて、フムフムってまた何か考えている。 「ここは神様の塔じゃないの?」 「いや、神様の塔だよ」 「一人で住んでるの?」 「そうだね。長い間ずっと一人かな」 「ずっと一人?」 「そう、ずっと一人」  そっか。もくれんも一人になりたくて神様の塔に住んでいるんだ。でも、それってつまらなくないのかな。 「ずっと一人だと、つまらなくない?」 「つまらない? どういうこと?」 「僕も一人になりたくて神様の塔に住んでたんだけど、つまらなくなったから出てきたんだ」  そうして誰かに種をもらって、卵を産んで子どもを生むんだ。 「……そうだね、つまらないかもしれないな」  やっぱり。いくら一人がいいって思っても、ずっと一人だとつまらなくなる。僕は神様の塔に住んで一年くらいでつまらないって思うようになった。 「そうだ。じゃあ僕、しばらくここにいてもいい?」 「ここに?」 「うん。そうしたら、つまらなくなくなるよ?」  一人じゃつまらなくても、二人ならきっとつまらなくはないはず。それに、僕も種をくれる誰かを探すのに寝泊まりできる場所がほしい。 「なるほど、それは名案だ。じゃあ、きみがどこかへ行きたくなるまで、ここにいてくれるかな」 「うん!」 「それじゃあまそら、今日からよろしくね」 「こちらこそ」  ニコッと笑ったもくれんに、僕もニコッと笑い返した。

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