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第3話 日常

「本谷、今日も事故が無いようにしっかり頼むぞ!」 「はい。宜しくお願いします」 本谷嗣巳(もとや つぐみ)は、古河(ふるかわ)リーダーの言葉に頷いた。 物腰の柔らかい穏やかな好青年。 181センチの長身に、清潔感のある黒髪が(なび)く。決して派手さはないのだが、その整った目鼻立ちは人目を引く。 優しい性格で人当たりも良く、入社してこれまで接客トラブルは一度もない。上司の古河にとっても自慢の部下だ。 本谷があの少年に出会った日以降、写真展には至って平穏な時間が流れていた。 出社して配置に就き、いつもの業務を終える。そんな当たり前の日常だ。 ただ、あれから冷静になればなるほど、少年のことが気になって仕方がない。 展示会での、たまたま一度きりの接点。もう会うこともないと分かっていながら、少年の姿を何度となく思い浮かべた。 「――あら、本谷君、ごきげんよう。今回の運営もご苦労様」 柔和な高齢女性の声に、本谷はハッとした。 「……西園寺(さいおんじ)先生!おはようございます。私どもこそ、ありがとうございます」 本谷は、各種イベントや展示会などを企画運営する事業部に勤務している。 顧客であるクライアントは、業界トップクラスのアートディレクターやデザイナーだ。そのため招待客も、セレブが集まることが多いのが特徴だった。 今開催中の写真展は、この西園寺先生の後援で行われている。 先生は自身も現代美術作家だが、ジャンルを問わず若手作家の育成に尽力しているすごい方だ。 本谷たちの会社を贔屓(ひいき)にしてくれていて、個展や展示会を開く際には、度々運営を任される。 「かっこいい本谷くんがいてくれると、お客さんが喜ぶの。相変わらず評判ね。ほほほ」 長身かつ品のある風貌の本谷は、こうして褒められることが少なくない。 それもあってか、後方業務の多い男性スタッフとしては珍しく、来場者に近い監視や接待の仕事に従事させられている。 「どこに立っても絵になるわねぇ」 「そんなことないですよ。でも、ありがとうございます。楽しませてもらっているのは僕の方で……」 立ちっぱなしの仕事は体に(こた)えるものの、大好きなアートの近くで過ごせるため、本谷はこの仕事が気に入っている。 ――そうだ! 本谷は思い出したように切り出す。 「先生、お伺いしたいのですが、今回の展示作家でとりわけ若い男性人気が高い方はいらっしゃいますか?」 「あら、どうして?」 先生は、普段自分から主張することのない本谷の積極的な質問に少し驚いた。 「実は開催初日に、珍しい……というか、あまりこういった場所に縁が無さそうな客層の若者が来場しまして……」 左右に瞳を逸らして、少し気まずそうにする。 「まあまあ!そうなのね、嬉しいことだわ!敷居の低い展示会にしたいもの。今回は注目度の高い若手作家を集めたから、客層もきっと幅広いわ」 元々優しい雰囲気の先生の顔に、さらににっこりと笑みが浮かぶ。 まるで花が咲いたようなその笑みを見て、スタッフとして喜ばしいものの、一瞬の落胆が襲う。 (誰が来たっておかしくない。そうだよな。 客層が絞れた所で、少年たちのグループに結び付くわけもない) 少し困ったように苦笑いを浮かべた。 「ああ、でも!今回ちょうどタイミングが合って、事前に招待券の一部を繁華街のアートイベントで無料配布したのよ」 「え、無料配布……?ですか?」 意外な情報に、本谷は驚いた。 「そうなの。宣伝も兼ねてね。道行く人が意外とみんな受け取ってくれたのよ。見慣れない若者なら、もしかしてその時の券で見に来てくれたのかしら、ほほほ」 「……そうだったんですか」 確かに、率先してゆったりとアートを楽しむような集団には見えなかった。 普段なら縁のない場所に、気まぐれでやって来たということか。 本谷は西園寺先生にお礼を告げ職務に戻った。 そうか、繁華街――

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