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第36話 要塞

――体が痺れる。 生ぬるい液体を頭から被ったみたいだ。 鉄の匂いがして、それがようやく血液だと分かった。 「な、なんだ、起きてんじゃねーか!お……驚かせやがって!お前の所為(せい)だぞ!愛想はねェし言う事は聞かねェし、お前が悪いんだ!!」 「……」 目の前で着替え始めた男に罵声を浴びせられているのに、思考がまとまらず、今何をすべきかも(わか)らない。 とりあえず体の拘束は解かれたが、そのまま慌てて飛び出していった男は、部屋の外で店員に捕まったようだった。 「お客様?!どうかされましたか?!」 「ア、アイツが……琥珀(こはく)が悪いんだ!!俺は悪くねェ!!アイツが急に暴れて……!」 「とりあえず、こちらへお越しいただけますか?」 「ヤメロ!放せ!!俺は帰る!!」 憔悴(しょうすい)した様子の男の声を聞いているうちに、力任せに鏡へ打ち付けられたことを思い出した。 廊下に集まった店員達がザワつくと同時に、部屋の電話は(うるさ)いほどに鳴り響いた。 「……あ……ああ……」 痛みよりも先に、問題を起こして(とが)められるのではないかという不安に襲われる。 血のついたシーツを取り払い、抱き締めたままバスルームに逃げ込んだ。 「おい!琥珀!どこにいる?!」 「店長、鏡が割れてます!それに、所々血痕(けっこん)のようなものが……!」 「なんだこれは、一体何があったんだ」 暗いバスルームの中は、冷たくて居心地が悪かった。 正気に戻ると、(ひたい)から酷く流血しているばかりか、全身の所々に切り傷が付いていることが分かった。 「う……うう……ヒック……う……」 男に浴びせられた言葉の1つ1つが、今になって鋭く心に突き刺さる。 昨日、本谷(もとや)という名前の優しい客と出会い、樫原(カシハラ)さんにも褒められて、少しだけ調子に乗っていたのかもしれない。 初対面で誰かと普通の会話ができたことも、やたらと優しく腕に抱いてもらえたことも、こんな自分を受け入れてもらえたようで嬉しかった。 そして忘れてしまっていた。 苦しみにまみれたこの果てしない地獄のことを。 あの男に言われた様に、所詮(しょせん)自分は客に(すが)ることしかできない愚かな犬だ。 最早それすらも、できてはいないけれど。 『――琥珀って、素敵な名前ですね』 『ほんとだ琥珀色!すごい、なんて綺麗なんだろう――』 昨日言われた言葉と、まるで自分を何か特別なもののように見つめるキラキラした瞳が(よみがえ)る。 「うッ……うう……あああ」 昨日までは、あんなに自分の名前が好きだったのに。 男に(けな)された事が、(たま)らなく悔しい。 それなのに何も言い返せなかったのは、男の言う通りだと思ってしまったからだ。 涙が止まらず、血のついたシーツに顔を(うず)めた。 ――ドンドンと、バスルームのドアを何度も叩かれる。 「クソッ!琥珀の奴、鍵かけやがって出てきやしねェ」 「ラストなので後の心配はありませんが、店長、どうします?」 「まったく、ようやく軌道に乗ったと思えば手のかかるガキだ!文句を言ってやる!!樫原を呼べ!!」 まもなく日付が変わろうという23時半過ぎ、組の仕事を終えて事務所を出ようとする樫原のスマートフォンが鳴った。 「何ッ!?琥珀が?分かったすぐ行く」 一瞬驚いたような顔を浮かべるが、すぐにいつもの落ち着いた口調で告げた。 「ミヤビ、一緒に来てくれ。昨日は思いの(ほか)元気そうだったんだ。つい油断した」 孤独を好む癖に、実は寂しがりやの琥珀と長く一緒にいると、折角叶った独り立ちに水を差してしまう。 あの時はそう思って、すぐにでも甘やかしたい衝動を(こら)えた。 「樫原さん!琥珀に何かあったんですか?!」 「暴れて客と衝突したらしい。風呂場に(こも)ったまま(ふさ)ぎ込んでるみてぇなんだ。あと……」 「……?」 「怪我しちまってるかもしれねぇ」 「そんな!!」 車を飛ばし、店へと急いだ。 まだ営業中のビル全体が、今日も煌々(こうこう)(あや)しく光り輝いている。 「こちらです!」 「……ッ!!!」 店員数名に部屋へと案内され、その惨状に思わず言葉を失った。 「何コレ?!一体何があったらこんなことになるんすか!?」 「ミヤビ、鏡の破片に気をつけろ」 「これ全部、琥珀の血ってこと!?」 「風呂場はこっちだな」 2人はバスルームの扉の前で立ち止まった。 電気を点けても、曇りガラスで中がよく見えない。 「琥珀!オレだ!ミヤビも一緒だ、開けろ!」 その声に、応答は無い。 耳を澄ますと、ほんの(わず)かな呼吸の音だけが、扉越しになんとか聞こえた。 「オイ!琥珀が籠ってからどれだけ経ってる!!」 血相を変えた樫原が店員を問いただす。 その表情には、わなわなと怒りが込み上げる。 「よ、40分程かと思いますが……」 「クソッ!過呼吸を起こしてるかもしれねぇ!!テメェら今まで何やってたんだ!!」 「……樫原さん、どいて下さい」 「ま、待てミヤビ!琥珀がすぐそこにいたらどうする!!」 「大丈夫!琥珀なら隅っこで小さくなってるか、浴槽の中で丸くなってるハズっすよ!」 「ちょ、ま……!」 「オゥラァッッ!!」 ミヤビの長い脚が、風呂場の扉を勢いよく蹴り破った。 決して安い造りでも無かったはずのその扉は、見るも無惨に粉々に吹き飛んだ。 周りの店員達が仰天するのを尻目に、樫原は眉根を(ひそ)め、やれやれと溜め息をついた。 「樫原さん!中っす!」 「琥珀!そこに居るのか?!」 ミヤビの予想通り、琥珀の小さな体は浴槽の中で、赤いシミが広がるシーツと共に落ちていた。 呼吸が荒く、ぐったりしたまますごい汗をかいている。 「まずい!やっぱり過呼吸だ!琥珀、すぐ楽にしてやるからな!……ミヤビ!」 「すぐ下に車を付けます!先に降ります!」 「分かった!琥珀を抱えて行く。琥珀、しっかりしろ」 ミヤビが駆け出した後、樫原は変わり果てた琥珀の体を抱き締めた。 「許せねェ!!」 ――とんだ問題児をよこしたな。樫原ァ」 「……ッ!」 部屋の扉の前で、店長に行く手を塞がれる。 「客はさっき返した。聞くにそいつがとんだ失礼をかましたそうじゃないか。困るんだよ、きちんと仕込んでおいてくれねェと。なぁ樫原ァ?」 「……テメェ」 「この失態はお前が責任を取るんだろうなぁ?壊した鏡と風呂場の扉代は後で請求するからな」 「ふざけんな!!今は治療が先だろ!!」 樫原は店長を(にら)みつけ、琥珀を抱えて車へと急いだ。 酷く傷付いた体は、もう少しで大事に至るところだった。 病院のベッドで点滴を受けながら眠ってしまった琥珀を眺め、重い口を開く。 「ミヤビ、お前がいてくれて助かった。熱くなってすまなかった」 「樫原さん。オレはいつでも、あなたの力になりますよ」 「ああ、頼りにしてる」 組と繋がりの深い街医者の元に飛び込んで、直ぐに適切な処置を受けられた。 鏡で切った額の傷は場所が悪くてかなり流血していたが、数針縫って包帯を巻かれ、あとは安静にしろと言われた。 大事に至りかけたのは、過呼吸が原因で血液中の酸素濃度が著しく下がり、意識を無くしてしまったことの方だった。 「琥珀の場合、普通は自然に治る過呼吸で窒息もしかねない。気をつけてやらねぇと」 その夜は、ミヤビと2人でそのまま琥珀の暮らす部屋へと帰った。 「琥珀寝てるけど、起きたらびっくりしますかねー♪ふふふ」 「ってなんで3人で寝なきゃなんねーんだよ!おかしいだろ!」 「このベッド広いから余裕でしょー♪なんかちょっと前に戻ったみたいで楽しいなー♪」 ミヤビに無理矢理ベッドに押し込まれ、琥珀を間にして川の字で3人一緒に横たわった。 「ねぇ、樫原さん。琥珀……きっと何か事情があったんですよ」 「ああ。俺もこいつを信じてる。話してくれるか分からねぇけど、明日ゆっくり聞いてやろうな」 「ふふふ」 「なんだよミヤビ」 「樫原さん、ホントに丸くなったなぁって」 ミヤビは嬉しそうに樫原を揶揄(からか)った。 「誰よりも(とが)りまくってたオメェさんにだけは言われたかねーよ!チッ、もう寝ろ!」 「はいはい♪おやすみなさい」 「……おやすみ」 3人で眠るベッドはやはり少しだけ狭いけれど、なぜか不思議と落ち着いた。 今後の課題の大きさよりも、今はこの温もりを味わっておきたい。 そしてその温もりが、ほんの少しでもいいから琥珀に届けばいい。 呼吸が安らぎ、小さく上下を繰り返す薄い胸を見守りながら、樫原はゆっくりと眠りについた。

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