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第41話 温もり
「ハァ……ハァ……」
喘 ぎ疲れた琥珀 は瞳を潤ませ、肩で息をしていた。
「ぐったりしちゃってる。よいしょっと。おいで、琥珀」
「あう……またこの体勢?なんかコアラみたい」
「これが1番落ち着くでしょう?」
「そうなの?」
「はい。琥珀が」
「むッ?!」
本谷 は仰向けに寝そべった胸の上で琥珀を抱きしめて、薄い背中をよしよしと撫でる。
「俺、子どもじゃないよ」
「ふふふ、分かってますよ」
穏やかに宥 め、その小さな頭にキスをした。
「とても感じやすいんですね」
「ッ!」
「沢山触らせてくれて、嬉しかったですよ」
「い、いつもは絶対あんなこと言わないんだ!!俺が最初はリードしてたのに、本谷さんが急にスイッチ入れるから!」
琥珀は堰 を切ったように言い捨てて、必死に照れを隠した。
「だって、あんなに優しいの……はじめてだったんだもん。なんかやたらと……き、キモチぃとこばっか責めてくるし……そしたら、ヘンになって」
「観察してれば分かりますよ。琥珀の弱いところ」
「え……?かんさつ?」
「あ、ちなみに特に敏感なのは、口内と、陰茎の先端の裏側でしょ、あとはお尻の……」
「あああやめて!もう、恥ずかしいよ……」
本谷が清々しい顔で詭弁 を振るうので、琥珀は顔を赤らめた。
「それに……俺の名前……何回も、呼ぶから」
「呼びたくなるんです。素敵な名前だから」
「……」
琥珀は唇をギュッと噛み締め、静かに俯 く。
「そんな風に言ってくれるの、本谷さんだけだよ」
「琥珀?」
痩せた体が、ほんの僅 かに強張った。
「貶 す人だって……いるからさ」
「なんですって?」
「ただの脆 い樹脂……なんでしょ?それほど綺麗じゃない……気がするし」
「そんなことはありません!誰かに何か言われたんですか?許せません」
「他のお客さんに言われたんだ。き、気にしてないけどさ」
本谷は琥珀の両肩を掴むと、そのままがばりと起き上がった。
「本谷さん……?」
いきなり感情を昂 らせる本谷に驚き、琥珀はベッドの上でぺしゃりと座ったまま固まった。
「そのお客さんとやらは、何てことを言ってるんですか。万死に値しますよ」
「へ……?」
「訂正しろと直接言えないのが悔しいです」
本谷はやりきれない思いを吐露した。
「俺だって、自分の名前なんだからちょっとは琥珀について調べたこともあるよ?でも虫が入った樹脂の画像が出てきて、嫌になっちゃったんだ」
「なッ!そこがロマンなのに?!」
「虫怖いだもん」
一瞬愕然とした本谷は、すぐに気を取り直して琥珀を見つめる。
「いいですか?そもそも『琥珀』、つまり『アンバー』は植物由来の化石ですが、モノによっては数千、いや、数億年の時間をかけて育まれた、この地上で唯一の生物起源宝石です。いわば、地球上で最も古い芸術品なんです!」
「へ……?」
「もちろん偽物も多く出回っているので注意が必要ですが、考古学はもとより、生物学的にも、遺伝子工学的にも着目されています」
「は、はあ……」
急に真面目な話をし始める本谷に、琥珀は思わず怯 んだ。
「古代ギリシャでもそのパワーを『太陽の雫』、『太陽エネルギーのかたまり』などと奉 り、現代でも『幸せをもたらす石』として、非常に価値のあるものとして評価されています」
「ふ、ふうん……」
「それに、『アンバー』に込められる願いとしては守護と再生、長寿や繁栄といった意味が一般的ですが、夢の実現や、大きな愛という石言葉もあります」
「そうなんだぁ……すごいやぁ」
「まあ、石言葉は商業用に後付けされたものも多いですが、いかに人々を惹きつけてやまないか解るでしょう。それよりも、『アンバー』の希少価値はやはり、人間には決して創造することのできない、太古の歴史を封じ込めた樹脂だという点。地球のタイムカプセルなんですよ。それでもって……」
「うん…うん……」
話の途中から、琥珀の頭はクラクラしていた。
「――も、本谷さん!もう分かったよぉ。もういいよぉ」
溢れ出る情報量にめまいがし、琥珀は必死にストップをかけた。
「まだ『琥珀』の魅力が全然伝えられてません!『琥珀』を語らせたら長いんですから!」
「うわあああ、落ち着いてぇ。俺の名前にはそんな崇高 な願いなんて、込められてないからぁ」
石一つにここまで熱くなれる、目の前の男の情熱が恐ろしい。
「あ、でもそういえば母さんも……他の石より琥珀が好きだって言ってたかも。俺を産んだとき、俺の目の色を見て嬉しかったって」
その言葉を聞き、ふと落ち着きを取り戻した本谷は、慈 しむような笑みを浮かべ琥珀をそっと抱きしめた。
「『琥珀』は悠久の時を刻む、とても美しい宝石なんです。キミのお母さんは、きっとその尊さを、キミに写しとったんだ」
「あ……」
またこの感覚だ。
抱きしめられる度に知る、人肌の体温。
無邪気なミヤビさんとも、力強い樫原さんとも違う、優しい温もり。
会う度に、今までで1番優しく抱きしめてくれる。
まるで、宝物のように――。
「キミは素晴らしいんです。誰が何を言おうと……。絶対に、忘れないで」
「……」
琥珀は小さく頷 いて、本谷の胸に頬を擦 りつけた。
「あ、そうだ!渡すのが遅くなっちゃいました」
「……?」
「これ、貰ってください。次に仕事でお世話になる百貨店の地下で買ったんです。お土産にと思って、琥珀糖です」
「琥珀……糖?なあに?それ」
本谷が手にするリボンの巻かれたプラスチックの容器には、カラフルに透き通る宝石のような寒天風のお菓子が入っていた。
「琥珀と同じ名前のお菓子ですよ。甘いもの、好きって言ってたから」
「綺麗……」
琥珀は初めて見るキラキラとした和菓子を、目を見開いて真剣に眺めた。
「ふふふ、味も気に入るといいんですが」
「ありがと!大事に食べるね!!」
「はい……と、もうそろそろですね」
退出時間が迫り、名残り惜しくも別れを告げる。
扉を開けようとしたところで、琥珀が本谷のシャツを引っ張った。
「あの、本谷さん……、またね」
「はい!また次の日曜日。元気で」
小さく丸い頭をポンポンと撫でて、愛らしい頬に優しく口付ける。
「おやすみなさい、琥珀」
「ん……」
「――はぁ」
自分の部屋に戻ってからも、琥珀はしばらく感傷に浸っていた。
「もういっそ、店のお客さんが本谷さんだけだったらいいのに」
あんなに優しい人が、いつも近くに居てくれたら嬉しい。そうしたら、きっとありのままの自分も愛せるかもしれない。
琥珀の中で、これまでにない不思議な気持ちが湧き起こる。
貰ったプラスチックの容器を振ってみると、カラカラと乾いた音が鳴った。
リボンを解き、どの色にしようか少し迷ってから、薄桃色の琥珀糖を頬張る。
「……美味しい」
見た目通りの澄んだ優しい味わいが、口いっぱいに広がっていく。
「こんなに美味しいものを俺、今まで知らなかったんだ!」
小さな一粒は、食の細い琥珀にぴったりだった。
『キミは素晴らしい。絶対に、忘れないで――』
本谷の言葉に、改めて別の意味で心を揺さぶられる。
今の琥珀にとって、自己を肯定することは難しく、何かを願うことは贅沢でしかない。
自分の生い立ちも、人生も、誰かに誇れるものなど何もない。
多数の男達に何度となく穢 されて、本当はもう、消えてしまいたいのだから。
「俺、綺麗じゃないよ……汚いんだよ……本谷さん」
口から溢 れ落ちた名前に、温かさと隔たりを知る。
男娼である自分のことを厭 わず、真っ直ぐに温もりをくれる人。
「嬉しい。だけど、辛いよ……」
胸が締め付けられて、次第に視界がぼやける。
穢された自分は愛される資格がない。
この無力で愚かな身の上を知ったら、きっと嫌われてしまう。
「こんな俺で……、ごめんなさい」
寂しくなってもう一度琥珀糖を口に含むと、涙が頬へと伝った。
それでも優しい甘さは心の痛みをも包み込むように溶けて、ただ清らかに、ゆっくりと染み渡っていった――。
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