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第52話 表出

「……わ……私は……一体、何を……」 ホテルの別室に立ち尽くした父親は、数分前までの記憶を失っていた。 「思った通り解離してやがる。朝霧(あさぎり)さん、あなたは自分のしたことがまだ分かっていないようですね?」 冷たく突き刺さす声で柚木(ゆずき)が問う。 「なんだ……?この部屋は……。そうだ、息子の会社で祝賀会を……息子は……私の琥珀(こはく)は?どこへ行った?!」 正気に戻った父親が、辺りを見回して言った。 「息子さんなら、あなたに怯えきってしまったのでこちらで保護していますよ?」 「な?!何を言っている!!あの子は私が父親として、長年愛情込めて慎重に接してきたんだ!やっとまた会えたというのに……!」 「フッ……愛情ねェ、確かに」 吐き捨てられた言葉は、皮肉を(はら)む。 「何がおかしい!!」 「……じゃあこれを見ても、父親として正しい愛情と言えるんですか?」 柚木がテーブルへ置いたスマートフォンに、琥珀を襲う父親の姿が映し出された。 「ッ?!なんだこれは――ッッ!!!」 「紛れもなくあなたご自身じゃないですか。溜まってたんですか?こんな時間から盛るなんて」 「うわあッ!!」 父親は思わずスマートフォンを払い除け、興奮したように息を荒げた。 「わ、私じゃないッッ!こんなこと断じて私がするものか!!」 『――琥珀、なんで帰って来なかったんだ?ダメじゃないか。義父(とう)さんに抱かれるの、お前は好きだっただろ?』 「私の……声?……そんな、まさか……」 『琥珀ももうすぐ二十歳(ハタチ)になってしまうからな。十代のこの体を、もっと味わわせておくれ』 「もうやめてくれ!!!」 息子を支配しようとする自身の声。父親の精神が、一気に崩壊する。 「あなたに現実を知っていただくために、この部屋に小型カメラを仕掛けさせてもらいました。こちらはその映像です」 「……違う……私は……私は……」 「違う?これがあなたがあの子にしてきた全てですよ?今に始まったことじゃないくせに」 「嘘だ……琥珀……か弱いあの子に、私がそんなことするものか……」 「なに、そんなに頭を抱えないでください。あなたのためでもあるんですよ?」 不敵な笑みを浮かべ、柚木は葛藤する父親へと近付いた。 「そんな……ああ……あああ」 妖艶な瞳が優しく緩む。撫でるような声色で、そっと耳元に囁いた。 「ねぇ、朝霧さん」 「違う……違う……」 「あなたに必要なのは、カウンセリングと休息です。大丈夫、私に全てお任せ下さい」 ――1週間後。 深夜の暗い室内に、(かす)かな泣き声が響く。 「琥珀、入るぞ。体調はどうだ?」 樫原(カシハラ)が扉を開けると、小さな体は声にならない(うめ)きを上げながら、床にうずくまっていた。 「ったくお前、今日無茶して店に出ようとしたんだってな。声が戻るまでは接客禁止って言われてんだろ?ちゃんと寝てろ」 「……ッ!」 琥珀は顔を上げ、何か言いたげな表情で樫原を見つめる。 「今日が日曜日だからか。どうせ、常連の兄ちゃんの予約が気になったんだろ。ハァ……そんなんは一旦忘れろ」 (さと)すように呟くと、痩せた肩は小刻みに震え出す。 「……ッ……ッッ」 悔しそうに涙目で見上げる姿は、酷くボロボロに見えた。 「……悪ぃ。俺にお前を責める資格なんてねぇんだ。俺がついていながら、お前とお前の義弟(おとうと)を傷付けた。治るモンも治らねぇよな。すまねぇ」 樫原の謝罪に、琥珀の瞳からはただただ涙が(こぼ)れた。 「こんな所にちっこくなって……せめてベッドに上がれ。お前、まさかずっと泣いてたのか?また過呼吸が起きちまうだろ」 樫原の厚い(てのひら)が華奢な体を掬い上げる。 「……よっと、おわっ?!」 「……ッ!!」 突然琥珀が胸に飛び込み、樫原はバランスを崩してベッドに雪崩(なだ)れ込んだ。 「どうしたよ。ん?ちょ、なんだなんだ」 仰向けに横たわる樫原の腹の上に、琥珀がよじ登る。 張り付くようにぴったりと重なり、抱きついて頑なに動こうとしない。 「なんだこの体勢は。ったく、お前はガキだな。(かり)ぃからいいけどよ」 「……」 「……元々お前、大人の男が怖かっただろ?あんなことがあった後だし。その……俺は……俺はこうしてて怖くねぇのか?」 「……!……ッ……ッ!」 琥珀は驚いたように目を丸くし、首を振って全身で否定した。パクパクと口を動かし、何かを言っている。 (「す」、「き」) 「……ッ!そうかよ」 樫原は頬を赤らめながらがっしりと琥珀を抱き締め、小さな頭を撫でた。 「可愛いってのもクソ厄介だな」 「……?」 掌で琥珀に目隠しし、頭にこっそり口付けた。 「――父親のこと、一気に色々あって疲れたな」 「……」 「多分しばらく会わなくて済むからよ。あの父親には、治療が必要だったんだ」 撫でられて落ち着いてきたのか、痩せた体からは次第に力が抜けていくようだった。 「お前……」 「……?」 「本当によくこれまで……我慢したな」 「――ッ!」 琥珀色の瞳が大きく見開く。 「あの父親の豹変ぶりには普通ビビるわ。ずっと辛かったな。一人で、よく耐えた」 その言葉の重みで、幼き日から続いた琥珀の苦悩が鮮明に蘇る。 どうしようもできずもがいた記憶。 それでも我慢するしかできなかった無力な自分。 心の中で張り詰めていた細い糸が、静かにプツリと切れた。 「ヒック……ッ……ふ……んっく……ッ!」 全てを吐き出すように嗚咽(おえつ)する体を震わせながら、琥珀は樫原に縋った。 「そうだ。お前はもう我慢しなくていい」 父親を暴いた罪悪感の裏でようやく出せたSOSは、琥珀にとって複雑だったのだろう。 溢れ出る涙が、樫原の胸をも濡らしていった。 「今後のこととか……義弟(おとうと)のこととかよ……心配だと思うけど、今は休め」 「っく……、う……ヒック……んくッ」 「休め――」 樫原は力強く、その薄い体を抱き締めた。

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