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第54話 内剛

「申し訳ございません、柚木(ゆずき)さん!!付近は捜索しましたが、やはり見つからず……」 「ふうん。まあ本人が夜までに戻ると言ったんなら、信じて待つしかねェな」 「ありがとうございます!!」 「アン?」 「ヒィッ!」 柚木の鋭い眼光が、部下の心臓を(えぐ)る。 「琥珀を逃した落とし前はキッチリつけさせるに決まってんだろ。楽しみに待っておけよ?」 「……ッッ!!は、ハイィッ!!で、では……し、失礼します!!!」 震え上がった部下が去っていったところで、柚木は冷静に訊いた。 「テメェはどう思う樫原(カシハラ)ァ?なんか心当たりがあるんじゃねェのか?」 「……いえ、俺にも分かりません」 樫原の表情はいつになく神妙だった。 この日、琥珀は夏に百貨店で注文したフルオーダーのスーツが仕立て上がったので、試着も兼ねて引き取りに向かった。 「やっぱり、俺が同行すべきでした」 「そもそもテメェの躾が甘いからこうなったんじゃねェのかよ」 「すいません……。でも琥珀が、まさか自分から……」 スーツの引き取りが済んだところで、琥珀から少し時間をくれと組員に申し出たらしい。 そしてそのまま逃走し、何故か姿を消した。 「あーあ。従順な犬だと思ってたんだけどなァ?脱走する駄犬は檻に入れとかねェとだよなァ?」 「……待ってください」 「まーとりあえず帰ってきたら、たっぷり仕置きしてやるかァ」 「く――ッ」 ひとしきり再会の喜びに浸った後、琥珀はもどかしそうに何かを言いかけた。 「は……ッ、ア……、ッ……」 精一杯話そうと努めるも、思うように声が出せない。 (かす)かに絞り出せる限られた短音も、会話と呼ぶには程遠いものだった。 「琥珀、無理して喋らなくていいから!コレを使って」 「……!」 本谷(もとや)からメモ帳とペンを受け取り、琥珀はコクコクと頷いた。 『 父さんが 組に 保護された 弟も 多分いっしょ 』 辿々しい筆跡で書かれた一文に、本谷の表情が強張る。 「お義父(とう)さんが?!どうしてです?!ついに家族にまで手を出されたということですか」 辛そうに頷く琥珀の目に涙が溜まった。 『 おれ ずっと声出ない 何もできない 今も どうしたらいいのか分からない 』 震える文字が、その不安の大きさを物語る。 『 店でも使えない もう 殺されるかもしれない 』 涙目で見上げた琥珀を、本谷はすかさず抱き締めた。 「いくら何でもそれはちょっと早急すぎますよ。でも……こちらも早く行動に移さないとマズイですね」 「……?」 「私もただ待つだけではいられませんから。準備は進めています。ただ……事態が予想より早く悪化している。今日、琥珀をこのまま帰すわけにはいきませんね」 「……ッ!!」 本谷の冷静な言葉を聞き、琥珀は焦るようにペンを取った。 『 おれ ちゃんと帰る それは守らないと 』 まるで心に誓ったように、真っ直ぐに本谷を見つめる。 「そんなわけにはいきません!このまま警察へ行きましょう。私も証言します!早く安全な場所へ」 「ッ!!」 フルフルと首を振り、琥珀は苦しげに体を丸めた。 「ダメです!!君の置かれてる状況は普通じゃない!……怖がらないで、わっ、琥珀?!」 琥珀が突然本谷を押し退け走り出そうとする。 「ま、待ってください!」 「フッ……!ッ……!!」 本谷の長い腕に、軽い体は呆気なく捕まった。 ジタバタと抵抗するも、非力な手足はすぐに絡め取られてしまう。 「混乱させてごめん。分かりました。戻らないと何をされるか分からないですもんね」 「ッ……んんっ!んッ」 琥珀は再び本谷に抱き締められたまま、行き場の無い怒りで肩を震わせた。 「もう言わない。言わないから。私からは……逃げないでください」 「……ハッ……ハァ、ハァ」 ようやく落ち着きを取り戻したのか、琥珀の緊張が解け、ポタポタと涙が(こぼ)れ始めた。 「琥珀?」 謝るように、琥珀は何度も何度も頭を下げた。 「大丈夫。全部琥珀を苦しめる悪い人がいけないんです」 「……」 その子どものように小さな顔に浮かぶ、潤んだ黄色い瞳。 切実な思いに本谷の心が締め付けられる。 「大変でしたね。びっくりしたけど、来てくれて嬉しい。私を頼ってくれて、ありがとうございます」 「……」 「琥珀、愛していますよ」 本谷の口付けに、琥珀は素直に応えた。 『 もとやさん 家族いないの おれ知らなくてごめん 』 琥珀が気まずそうに書いた思わぬ一文に、本谷は少し驚いた。 「聞いちゃいました?もしかして、古河(ふるかわ)リーダーかな?すいません、隠してたみたいになって」 「……」 2人だけの小さな部屋に、静寂が宿る。 端正な本谷の顔が僅かに(うつむ)き、顔にかかる前髪のせいか、普段よりもどこか(うれ)いを秘めていた。 「私は、郊外の小さなアパートで育ちました。両親は共に施設育ちでしたが、惹かれあって結婚したそうです」 聡明さの(にじ)む落ち着いた声で、本谷は優しく語り始めた。 「5歳の時、母が病気で。14歳の時、父が事故でそれぞれ他界しました」 「……」 「父の事故の方は、過失を起こしたのが有名な資産家だったんです。だから多額の賠償金をいただけて、生活費はそこから十分賄えました」 少し困ったように、噛み締めながら続けた。 「どこからか噂を聞きつけた知らない人達に、養子にならないかと度々声をかけられたこともありました。でも、みんな私が持たされたお金目当てでした」 「……」 心配そうに聞き入っていた琥珀が、いつの間にか本谷の手を握っていた。 「大人が信じられなくなって、塞ぎ込みました。でも、幼い頃から可愛がってくれていた向かいの家のおじいさんだけが、変わらず本当の孫のように接してくれたんです」 本谷は、保険金もあったが手を付けず、奨学金とバイトで稼いだ資金で大学を卒業した。 「父は大学の準教授だったんです。考古学が専門で……。それもあって、私は物心付く前から博物館や美術館によく連れて行ってもらってました」 一緒に過ごせた期間は短いものの、今でも家族との沢山の思い出が、本谷を支え続けている。 『 すごいね いいお父さん 』 「ふふ、ありがとうございます」 感心する琥珀の頭を、本谷は優しく撫でた。 「父が亡くなる時、私は言われました」 『――嗣巳(つぐみ)、死んではいけないよ。世界はまだ、お前の知らない美しいもの、愛すべきもので溢れてる。命ある限り出会うんだ。生きる答えがそこにある。父さんと母さんは、応援しているよ』 本谷は目を閉じ、満たされたように微笑んだ。 「私は誓ったんです。父さんと母さんの分まで、色々なモノを見て、触れて、生きていくって。約束したんだ」 その言葉の穏やかさとは反対に、琥珀の表情は寂しさで曇っていた。 『 そんなの辛いよ 一人は怖いよ 約束したくらいじゃがんばれない なんで 笑っていられるの? 』 書き殴ったような琥珀の筆跡を指で辿り、本谷は何度か頷いた。 「そうですね。涙はもう、枯れるほど泣いたからですよ」 「――ッ」 その言葉に、本谷の深い悲しみと苦しみ、そしてそれを乗り越えた強さが滲んだ。 傷を負っても尚、尊い人ほど普通の顔をして懸命に日々を生きている――。 ( 無理だよ 俺はもとやさんみたいに 強くなれない なれないよぉ ) 胸がいっぱいで手が動かず、琥珀の言葉は涙になって落ちていった。 「今なら、私は父さんのくれた言葉の意味がよく分かります。苦しみを受け入れて生きてみたら、私は出会えました」 「……?」 「この世界で一番美しくて愛すべき、私の大切な琥珀に」 ――!」 その瞬間、見開いた琥珀色の瞳には、慈愛に満ちた本谷の優しい笑顔だけが映っていた。 「琥珀と一緒なら、まだ前を向いて歩こうと思える。生きて行こうと思える。それだけじゃ、ダメですか?」 「……じゃ……ない」 「ッ琥珀?!」 「ダ……メ……じゃ……、うっく……なぃぃ……!」 「声が……!戻ってる!良かった!!」 大泣きしたままの小さな恋人を、本谷はただただ優しく抱き締め続けた。 「良かった――!!」

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