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第32話

 甘えて身を(もた)せ掛けてくる煜瑾(いくきん)が可愛くて、文維(ぶんい)は人目も気にせず、煜瑾を抱き寄せ口づけた。嬉しそうな煜瑾も腕を回し、文維を引き寄せ、より深いキスを求める。 「煜瑾坊ちゃま」  少し離れたところから、(とう)家の(ぼう)執事が淡々と声をかけた。 「?」  何も言わずに振り返った煜瑾に、茅執事は平然と対応する。 「今夜のお食事は、ゲストハウスの方にご用意いたしましょうか?」 「ええ。文維の好きなローストビーフサンドは忘れないで下さいね」  こうして文維は否応なく、唐家に宿泊することになった。 ***  一度、唐家の母屋に戻り、煜瑾と文維は兄の唐煜瓔(とう・いくえい)と、ゆっくりお茶を飲み、煜瑾はパーティー会場を提供してくれたことへの礼を述べた。 「お兄さまのおかげで、今日はとても素晴らしいパーティーでした。ありがとうございました」  煜瑾が無邪気にそう言うと、文維は至って真剣な表情で唐煜瓔に威を正して言った。 「煜瓔お兄様が、私と煜瑾の婚約を認めて下さったことで、思いがけず今日は私たちの大切な記念日となりました。心から、感謝させて下さい」  少し緊張している文維に皮肉っぽい笑みを浮かべ、唐煜瓔は言った。 「いや、これで君は唐家から逃れられないということだ」  兄の珍しい冗談を逆手(さかて)に取って、煜瑾も文維の腕に縋りつきながらからかう。 「ふふふ。文維はもう、私から逃げられないということですね」 「逃げるはずないのに…」  唐煜瓔の視線を気にしつつ、少し照れた顔をした文維が、煜瑾には愛しかった。嬉しそうな弟の様子に、兄は敢えて苦言を呈した。 「しかし『婚約』というのは、ただの欺瞞だ。見かけだけで何の実質も伴わない関係にすぎない」  冷ややかな口調で言う唐煜瓔は、決して2人を苦しめるつもりではなく、現実の厳しさを教えようとしていた。 「いいえ。それでも、私の煜瑾への誠意を表すことが出来ます」  そのことをよく理解している文維は、真っ直ぐに唐煜瓔を見つめ、真摯な態度で答えた。その答えに満足したのか、煜瓔はカップに残した紅茶を飲み干した。 「その言葉が、一生変わらない事だけを、私は祈ることしか出来ない」 「私は、決して煜瑾も、貴方も裏切ることはしません」  もう一度、文維は毅然とした態度で煜瓔に誓った。そんな揺るぎ無い文維が嬉しくて、誇らしくて、煜瑾は泣きそうになるが、無理に笑顔を作って文維に腕を絡めた。 「お兄さま…、もう文維を苛めないで下さい」 「苛めてなどいないよ」  煜瑾に嫌われたくないと、唐煜瓔は笑って取り繕った。そしてすぐに話しを変えた。 「今夜は、ゲストハウスに泊まるのだって?」 「はい、私と文維の2人で泊まります」  素直な煜瑾の答えに、一瞬眉を顰めた煜瓔だったが、すぐに微笑み、文維の方を見る。 「煜瑾が、君を想い、心を込めて改装したのだよ、文維」 「はい。とても素晴らしい内装でした」  その言葉に、文維も嬉しそうに煜瑾の顔を覗き込んだ。そんな文維にはにかんで、煜瑾は俯きながら文維にしか聞こえないような、小さな声で言った。 「文維のお気に召して、とっても嬉しいです」

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