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ー 初夏の候 ⑨
夜も更け、海人は寝衣でイリアスの部屋の前に立っていた。
昼間は駐屯地に訪れた貴族令嬢のことでイリアスの機嫌を損ねたと思っていたが、帰宅するときは変わりなかった。
その件を話題にすることはなかったが、海人は別のことに気を取られていた。
扉を叩くとイリアスが開けてくれた。髪が濡れている。艶 めかしくて、どきっとした。
「入ってもいい?」
「……カイトの部屋に行こう」
「うん」
この頃、肌を合わせるときはイリアスが海人の部屋に来るようになっていた。
それまでは海人が彼の部屋に入り浸っていたのだが、ある朝、イリアスの部屋から出たところで伯爵と会った。
「ここで寝てたのか」と訊かれ、慌てて「勉強を教えてもらっていたら、そのまま寝てしまった」と答えた。
イリアスの義父で、領主でもある伯爵は何も言わなかった。
しかし、そのやり取りをイリアスは部屋の中から聞いていた。
それ以降、夜はイリアスが海人の部屋に来るようになった。
朝まで一緒に寝ることがなくなったのは残念だったが、節度は必要なのかもしれないと思ったので、何も言えなかった。
海人の部屋に入ると、イリアスに後ろから抱き竦 められた。
正面に向き直ると、待ったなしでキスされた。
海人も存分に味わいたかったが、今日は言いたいことがある。
身じろぎして、身体を少し離した。
イリアスがどうしたのかと無言で見つめてきたので、海人は思い切って言った。
「おれ、今日は最後までしたい」
灰色の瞳が驚いたように大きくなったので、海人は急に恥ずかしくなった。顔が熱い。
目を見つめることができなくなり、うつむいた。
「えっと……その、いつも俺ばっかり気持ち良いから、イリアスにもちゃんと気持ちよくなってもらいたいっていうか……」
顔から火が吹きそうだった。心臓もどくんどくんとうるさかった。
顔を上げられずにいると、イリアスは優しく抱き締めてくれた。
密着した胸から心音が聞こえる。心地よい鼓動だった。
わかってくれたかな、と思ったが、イリアスは抱き締めたまま言った。
「カイト。焦らなくていい」
「!」
反射的に顔を上げた。
「焦ってなんか……!」
灰色の瞳が射貫くように見てくる。海人は口をつぐんだ。
焦っていることは間違っていなかったからだ。
昼間、隊舎の休憩室で娼館の話が出た。
あってもおかしくないその存在を考えたことはなかった。
話を聞いても海人には関係のないことだと思ったが、不意にイリアスは自分との行為に満足しているのだろうかと思った。
満足できているはずがない。海人の反応を見て、我慢してくれているのだ。
しかし、いつまで我慢するつもりなのか。我慢して、面倒になったら、娼館に行ってしまうのではないかと思った。
女相手なら苦労だってないだろう。それだって嫌だが、もし相手が男娼だったりしたら耐えられない。イリアスがそんなことをするわけがないのに、不安に襲われた。
早く満足させなければと思った。
海人の揺れた瞳を見て、イリアスは綺麗に微笑む。
「私はカイトに触れられれば、それでいいんだ」
そして海人の気持ちをよそに、熱いキスをした。海人も抗えず、溶かされていく。
ベッドに倒れ込み、いつものように優しい愛撫を受けて、いかされた。
時がたつ。
イリアスのいなくなった部屋で、海人は唇を噛んだ。勇気を振り絞って言ってみたが、ダメだった。イリアスを受け入れたいという気持ちは、ずっとある。
もう、どうすればいいのかわからなかった。
海人は枕元にある小机の抽斗 をひいた。中には現代日本のスマホがある。
この世界に来て、一度も電源は入らなかった。
すでに一年が過ぎており、充電も切れていることはわかっていたが、電源ボタンを押してみた。
スマホが使えれば、誰かに相談できるのに。
相手は顔の見えない誰かであっても、答えてくれる。
海人は黒い画面を見つめ、スマホを握りしめて眠った。
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