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ー 盛夏の候 ④

「いってらっしゃい」 宵闇が訪れた頃、カイトに見送られてイリアスは馬車に乗った。普段の夜会着ではない着飾った姿にカイトはいつもと違うね、と言いながら頬を染めていた。 反面、兄のユリウスは微妙な顔をしていた。カイトには夜会だと言ったが、兄は騙せない。服装から上流階級の会食ではないことは一目瞭然だった。   馬車はルヴェン家に向かった。車中でカイトのことを想う。   義父である伯爵は早々に出かけた。彼はサウスリー領の南に位置する海洋国家タラントの王子との密会である。 かの国の王子は三年前、領主家に社会勉強としてお忍びでやってきた。このたび王太子として立つことになったので、最後に羽根を伸ばしに近くまでやって来るそうだ。 このことは極秘であり、兄にも伝えていない。伯爵が隣国の王子の密会を優先するのは当然だったが、イリアスの予定は反故にしてもよいものである。 それを期待したが、父は行けと言った。今はまだ伯爵には逆らえない。   イリアスは口を引き結んだ。カイトと兄を残して外出などしたくなかった。 日中、何があったのかわからないが、カイトがユリウスに心を開いたのがわかった。 王宮でのカイトは無条件に魅かれてしまう兄を気にはしていたが、距離は取っていた。だが、木陰で安心しきった顔で兄の手を握って眠っている姿に、どうしようもなく嫉妬した。   兄はディーテとのことを引き合いに出したが、あの頃の自分はまだ子供で、二人はすでに大人の恋をしていた。恋愛感情など生まれようがない。 だがカイトは違う。運命で魅かれる相手に恋をしてもおかしくないくらい、心も体も大人だった。兄の気持ちがカイトに傾くことなどない。それは自信をもって言える。 しかし、その揺らがない気持ちすらも兄の魅力のひとつだ。自分は兄に勝てる気などまったくしなかった。   順調に進んでいた馬車が止まった。目的地に着いたようだ。馭者(ぎょしゃ)が扉を開けたので、イリアスも思考を一旦止めて降りた。   ルヴェン家の屋敷の前には多くの馬車が止まっている。到着は遅い方だった。   屋敷に入るとホールはシャンデリアが煌めき、華やかな衣服を纏った若い男女たちを照らし出している。各々話しに花を咲かせていた。皆が浮き立っている。   今夜はルヴェン家主催の舞踏会だった。   イリアスが現れると場内から微かに驚きの声が上がり、ざわついた。それもそのはず。イリアスが舞踏会に参加するのは三年ぶりだった。   三年前、辺境警備隊の前隊長が魔獣から受けた傷が元で亡くなった。次の隊長は当時から副官を務めていたダグラスがなるものだと誰もが思っていた。 五十代前半であり、年齢的にも申し分ない。だが彼はイリアスを隊長に指名し、自らは副官のままで留まった。   十九歳という異例の若さで隊長職を受けることには大いに抵抗があった。隊員達の反発だって予想された。 イリアスは十五歳で辺境警備隊に入隊していたが、貴族ということもあり、入隊から四年経っても、隊員達からは一歩引かれていた。 自分自身も愛想の良い方ではないのはわかっていたし、積極的に仲良くなろうとする性格でもなかった。 隊の足を引っ張らない程度に意思疎通だけはしていた。孤立しているわけではなかったが、他の隊員達が気軽に肩を叩き合っていても、彼には誰もそのような態度は取らなかった。取れなかったというのが正解だろう。 その中でも、気安く話してくれたのは前隊長とダグラスだけだった。   訓練のときもイリアスと組む者はどこか遠慮していた。気にしないでくれと言っても、貴族の不興を買いたくないという意識は皆働いた。 必然的に剣の相手はダグラスが務めるようになった。魔法に至っては右に出る者はいない。将来は王宮の守護を任されるはずで、そのための魔法教育を幼少時代から受けていたのだ。 魔法の訓練の時間は、強力な攻撃魔法を編み出すことを考えていた。   剣技の達人であるダグラスの指南を受け、イリアスは隊長になる前から群を抜いて強かった。隊長になるための実力は申し分なかった。 それでも若さゆえに反感も買っているだろうとの危惧もあり、隊長に就任してからは隊員達に気を配ることに重きを置いた。 いざとなったときに指示に反抗され、勝手な行動を取られては困るからだ。人心も含めて早急に隊を掌握しなければならない時期に、舞踏会など悠長に出ていられない。 イリアスは事情を伯爵に話し、夜会には出ても、舞踏会は免除してもらっていた。 結局、イリアスの心配は杞憂に終わり、隊員達はあっさりと自分について来てくれた。 ただ、何かと面倒な舞踏会には出たくなかったので、これ幸いと放っておいたのだが、ここに来て伯爵から舞踏会に出るように命令された。 伯爵がそんなことを言い出したのは、カイトとの関係に気づいたからだろう。   カイトと想いを交わして半年しか経っていない。彼とはまだ始まったばかりで、将来を約束したわけでもない。イリアスは頭を悩ませながらも、断る理由がなく、不本意ながら参加となった。   舞踏会は独身貴族たちの出会いの場である。そんな場にしばらく鳴りを潜めていた次代の領主がやってきたのだ。高い地位を持っている自分に女たちが色めき立っているのがわかる。   内心ため息を吐いていると、音楽が鳴り始めた。舞踏会開始の合図だ。   イリアスは場内をさっと見回した。誰が来ているかを確認する。会食が主である夜会には出ているので、貴族の顔は大体覚えており、知らない顔はなかった。 そして、この場で最も高い家格の貴族は自分だった。   公爵家の息子が来ていれば彼に譲ることもできたのだが、そう思い通りにはいかなかった。 イリアスはルヴェン子爵夫人の元にゆっくり歩いていった。 その横には若い娘がいた。子爵夫人に目をやると、夫人は上擦った声で言った。 「娘のリエンヌです。舞踏会は今夜が初めてでございます」   イリアスはリエンヌに軽く礼をし、少し屈んで右腕を出した。リエンヌは明らかに戸惑っていた。母親である夫人にそっと背中を押され、ようやく腕を取った。 踊るためにホールの中央にエスコートする。   舞踏会にはルールがある。一番最初に踊るのは主催者の家の女性と招待客の中で最も家格の高い男だ。今夜はリエンヌとイリアスがそうだっただけで、特別な意味はない。   それでもサラディール家に招待状を出しても、なしのつぶてだった男が出てきたのだ。リエンヌに気があるのかと邪推されても仕方ない。   領主家の事情などわかるはずのない女たちは、嫉妬と羨望の入り混じった眼差しをリエンヌに向けていた。   二人が踊り始めてしばらくすると、男たちは女たちに声をかけ、踊り出した。彼らの中には意中の相手もいるだろう。そうして夜通し相手を変えながら、時に気に入った女には再び声をかけ、仲を深めていく。 彼女たちは声がかかるのを待っていた。   イリアスはこの場にいる女たち全員と踊るつもりでいた。次に踊る相手は、女の中で一番家格の高い者。次は二番目、そうやって一回ずつ踊ってから退散する。誰に目を掛けたなどと言われないようにするためだ。   リエンヌは最初こそ戸惑っていたが、踊り始めると堂々としていた。   二か月前に辺境警備隊の駐屯地まで単身でやって来た変わり者だが、カイトが舞い上がるくらいの美少女だ。淡いピンクのドレスを着て、薄く化粧をしたリエンヌはあの時より格段に可愛く、男の目を惹きつけた。   イリアスは会話をする気はなく、無言無表情を通していたが、彼女は果敢にも話しかけてきた。 「サラディール様」   イリアスの胸の辺りくらいしか身長のないリエンヌが上目遣いで見てきた。 「あの御方はご一緒ではないのですか」 「誰のことだ」   わかっていて冷たく言ったが、リエンヌは怯まなかった。 「黒い髪の御方のことです」   彼女は十五歳になったばかりで成人して間もないため、幼さは残っていたが、立派に女の目をしていた。 「彼が気になるのか」 「……はい」   自分と踊りながら、よく他の男の話ができるものだと呆れてしまう。相手に失礼だとわかっていてリエンヌが訊いてきたのだとすれば、大した玉だ。 「どこが気に入った」   問うと、リエンヌは頬を赤く染めた。 「至宝のような黒い瞳とお優しそうなお顔が忘れられません」 「一目惚れか」 「…………」   彼女は恥ずかしそうに小さくうなずいた。   イリアスはダンスのステップに(かこつ)けて、彼女の腰を引き寄せた。笑みを浮かべると、リエンヌは真っ赤になった。 この顔が女受けをすることは知っている。彼女が釘付けになったところで、耳元で牽制の言葉を囁いた。   リエンヌの動きが止まる。頃合いよく、音楽も一曲終わった。  イリアスは体を離し、目を見開いている彼女を残して、次の相手の元へ向かった。

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